1周を満足に走れないほど
過酷なニュルブルクリンクの洗礼
のちにR33の商品主管になる渡邉衡三は、長倉よりもやや遅れて実験主坦として実験部に異動してきた。
そんな渡邉について、長倉は次のように語っている。
「渡邉さんは『こんなのやりたいな』とボソッと言うことが多いんです。試作車ができたばかりのころ『長倉さん、この試作車、どこかのサーキットで走らせたいよね』って言ってきて、とても驚きました。試作車は門外不出ですからね。外部のサーキットで走らせるなんて言ったら大問題になります。が、懇願されると、掟破りですがやってあげたくなってしまうんです。私も本音では走らせてみたかったから」
それから「GT-Rの開発なのだから」という、掟破りがはじまり、その行きついた先が、ドイツのニュルブルクリンクでの走行テストだった。
最初に試作車を持っていったのは、1988)年10月。
実験ドライバーは加藤などが渡独し、精力的にテストを行った。
長倉はドライバーたちの管理を担当した。
「最初は栃木の商品性評価路で、その次は筑波サーキットで走行テストを行いました。そのうちに渡邉さんがドイツにニュルっていうすごいところがあるんだけど、ここを走ってみたいな、と言ってきたんです。よくわからなかったのでOKを出したら、甘かったことがわかりました。
たくさんのパーツを積み、勇んでニュルに行ったのですが、最初は僅か半周しか走れなかったのです。屈辱でしたね。加藤さんから『クールダウンして戻ります』と無線が入るたびにガッカリして……。いつもアデナウの町あたりで失速してしまうんです。エンジン、ターボ、ミッション、デフ、パワーステアリングなど、いろいろなところが壊れました。
対策部品は現地で作ることも多かったですね。図面もないから大変でした。走りも苦労の連続ですね。最初はラインをあけてくれなかった。でも安定して速く走れるようになると、BMWやメルセデス・ベンツの開発チームが道を譲ってくれました。うれしかったですね。R32系スカイラインの開発メンバーには、素晴らしい人たちが揃っていました。一所懸命、走り込み、誰もが安心して走れるクルマに仕上げていったのがGT–Rです。これほど気持ちが入ったクルマはありませんね。やり残したことは何もなかった。だから発表されたときは、正直、もうやりたくない、と思いましたよ」と、最後に長倉靖二は、笑顔で本音を語ってくれた。
(文中敬称略)