7thスカイライン発売直後から
スタートしたBNR32の開発
「ニュルブルクリンク(ドイツの世界一過酷と呼ばれるサーキット)では、いろいろなところが壊れました」と、述懐するのは長倉靖二。
当時、日産の第一車両実験部の第二商品性実験課(車担)の所属で、かの加藤博義(当時第一車両実験部のちの現代の名工)とともに、R32系スカイラインの開発ドライバーを務めた男だ。R32系スカイラインの開発プロジェクトは、今から30年前の1985年夏、7代目スカイラインを送り出した直後にはじまった。
「7thスカイラインが発表された昭和60(’85)年に栃木の第二商品性車両実験課に移籍しました。9月ぐらいでしたか『次期スカイラインの開発をやるから』と招集され、基準車と後にGT–Rと呼ばれる高性能モデルの両方が私の担当でした。走る、曲がる、止まる、のクルマにとって重要な三つの要素を追求するだけでなく、商品性向上のための、合いスキ段差(チリ合わせ)、手触りの良さ、使い勝手なども検証しています。また、動的な静粛性も検証しました。コンポーネントなどの部門と協力し、クルマとしてのまとまりやバランス感覚などをチェックするのが仕事の中心でしたね」
R32系スカイラインは、今までの流れをいったんゼロに戻し、新たな評価基準を作るところからスタートした。
日産の基準値以上でもGT-Rだから許された
性能目標は、当時としては驚くほど高く設定。目標を達成するために発足したのが901連絡会である。また、性能評価ドライバーの訓練も徹底して行った。
「R32(スカイライン)の開発が始まったとき、商品主管の伊藤修令さんが栃木の実験部に来たんです。テストコースの前にある小さな部屋で、私や加藤博義さんなどの実験ドライバーとエンジニアを前に、開発の指揮を執ると挨拶しました。そのとき言われたことが今でも印象に残っていますね。『設計は設計で頑張ってもらうんだけど、実験のドライバーが乗って、これ、何かおかしいね、この数値で本当にいいのか、と思ったり感じたら、すぐに俺に伝えてくれ』と言ったのです。
開発者も実験の人たちも、一緒になっていいクルマを作っていくのだから『垣根を越えて率直な意見を』と言われたときはうれしかったですね。心底、伊藤さんが喜んでくれるクルマを作りたい、と思うようになりました」と長倉。
シャーシ性能、走りの性能において世界ナンバーワンを目指す。これが伊藤修令(R32スカイライン開発責任者)の掲げるR32の開発方針だったので、日産の実験基準、生産基準にそぐわないことも多かったと長倉は述懐する。
「GT–Rを開発していくと、どうしても社内基準に当てはまらないところが出てくるんです。例えばクラッチの踏力ですが、あのパワーとトルクに耐えるために基準値の12㎏をはるかに超えてしまいました。普通は数値だけ見てこれはダメと言われてしまうんです。が『GT–Rだからいいだろう』と報告書にサインしたのが渡邉(衡三)さんでした。
旋回しているときにGがかかり、燃料が息つぎを起こしてしまうトラブルも出ました。厚木の日産テクニカルセンターの実験担当では埒が明かないので、その上司に連絡したのです。栃木の商品性評価路を一緒に走ってもらい、納得した上で対策部品を作ってもらいました。こういったことが多かったですね」と、開発時のエピソードを語った。
実験ドライバーが造形担当のエンジニアに意見を述べることはほとんどない。が、スカイラインに関しては口出ししたという。
そのひとつがステアリングとシフトノブの形状だ。ステアリングは、前後に縦長の形状、それに合わせたシフトノブの形状などに徹底した拘りを見せている。とにかく機能に関わるものは、見た目だけでなく、握り具合や手触り感も大事だから木型を削って重要性を説いた。また、ペダル類の形状にも強い拘りを見せている。
「アクセルもブレーキ、クラッチといった三つのペダルやステアリングのフィンガーレストなどは、実験部の人間がイラストを描き、デザイナーに提案しました。このフィンガーレストは、GT–Rが初採用だったように思います。また、シートも拘り抜きました。R32のシートはスマートなんですが、サポートがいいんです。私は大柄ですが、加藤さんはちょっと小柄なので、両方の体格の人が満足できるシートを設計担当者にお願いしました。薄くてもきれいに面で支えるシートを提案しました。あの感触は今でも覚えています」 と、苦労話を語ってくれた。
1周を満足に走れないほど
過酷なニュルブルクリンクの洗礼
のちにR33の商品主管になる渡邉衡三は、長倉よりもやや遅れて実験主坦として実験部に異動してきた。
そんな渡邉について、長倉は次のように語っている。
「渡邉さんは『こんなのやりたいな』とボソッと言うことが多いんです。試作車ができたばかりのころ『長倉さん、この試作車、どこかのサーキットで走らせたいよね』って言ってきて、とても驚きました。試作車は門外不出ですからね。外部のサーキットで走らせるなんて言ったら大問題になります。が、懇願されると、掟破りですがやってあげたくなってしまうんです。私も本音では走らせてみたかったから」
それから「GT-Rの開発なのだから」という、掟破りがはじまり、その行きついた先が、ドイツのニュルブルクリンクでの走行テストだった。
最初に試作車を持っていったのは、1988)年10月。
実験ドライバーは加藤などが渡独し、精力的にテストを行った。
長倉はドライバーたちの管理を担当した。
「最初は栃木の商品性評価路で、その次は筑波サーキットで走行テストを行いました。そのうちに渡邉さんがドイツにニュルっていうすごいところがあるんだけど、ここを走ってみたいな、と言ってきたんです。よくわからなかったのでOKを出したら、甘かったことがわかりました。
たくさんのパーツを積み、勇んでニュルに行ったのですが、最初は僅か半周しか走れなかったのです。屈辱でしたね。加藤さんから『クールダウンして戻ります』と無線が入るたびにガッカリして……。いつもアデナウの町あたりで失速してしまうんです。エンジン、ターボ、ミッション、デフ、パワーステアリングなど、いろいろなところが壊れました。
対策部品は現地で作ることも多かったですね。図面もないから大変でした。走りも苦労の連続ですね。最初はラインをあけてくれなかった。でも安定して速く走れるようになると、BMWやメルセデス・ベンツの開発チームが道を譲ってくれました。うれしかったですね。R32系スカイラインの開発メンバーには、素晴らしい人たちが揃っていました。一所懸命、走り込み、誰もが安心して走れるクルマに仕上げていったのがGT–Rです。これほど気持ちが入ったクルマはありませんね。やり残したことは何もなかった。だから発表されたときは、正直、もうやりたくない、と思いましたよ」と、最後に長倉靖二は、笑顔で本音を語ってくれた。
(文中敬称略)