高級車市場に投入された悲運のプレステージカー
変わり種3連発の最後はマツダ『ロードペーサー』。
当時のマツダのラインアップで最大サイズの乗用車は、2代目ルーチェ(LA2系。全長=4240mm×全幅=1660mm)だったが、このロードペーサーは全長=4850mm×全幅=1885mmと、当時では超ド級サイズ。オーストラリアの自動車メーカーでGM傘下にあったホールデンのHJ系プレミアーのボディをマツダが輸入し、国内で654cc×2ローターの13Bエンジンに乗せ換えて販売したものだった。
フルサイズのモデルを持っていなかったマツダは、当時は海外メーカーとの提携もなく独自で開発する必要があったが、この手法を採ることによって開発コストを抑えることが可能になり、また貿易摩擦の解消に一役買うといった、思わぬメリットもあったという。
ただし、ロータリー・エンジンのウィークポイントであった、低回転域でのトルクの細さと燃費の悪さが災いした。スポーツカーやハイパフォーマンスがセールスポイントのクルマなら、高回転まで一気に吹き上がるロータリー・エンジンのアドバンテージを享受できるのだが、いわゆるビッグサイズセダンでは低回転域からトルクフルなエンジンを利してゆったりと走るのが基本。こうした運転パターンは、センチュリーやプレジデントのようなV8の大排気量レシプロ・エンジンが得意とするところで、ロータリー・エンジンでは太刀打ちできなかった。
また、発売当初は2年前に発売されたプレジデント(最上級グレードのDタイプで308万円)に比べてフロントがセパレートシートの5人乗りで371万円、ベンチシートの6人乗りでも368万円と2割以上も高い価格設定となっていたことも、販売台数が伸び悩む一因となった。
さらに3代目に進化したルーチェが5ナンバーサイズながら、このクラスのユーザーにはより好意的に迎えられたことで、結局こちらがマツダのフラッグシップのポジションを確立。ロードペーサーはモデル消滅の運命を辿ることになった。
排気ガス浄化がポイントで官公庁の“受け”は良く、発売当初の計画では、目標販売台数を月間100台としていた。しかしモデルライフ自体も約4年間と短かく、初年度となる75年には400台近くが販売されているが、総販売台数は800台に満たなかった。
Mazda Road Pacer AP Type RA13S(1975)
石川県は小松市にある日本自動車博物館に収蔵展示されているロードペーサー。ボディカラーがシックなブラックというのはセンチュリーやプレジデントをライバルとする狙いには相応しいボディカラーだろう。
ただ、センチュリーやプレジデントと違い、こちらはショーファードリブンではなく、あくまでもドライバーズカーだった。
Mazda Roadpacer AP 4-door Limousine Type RA13S(1975)
一方、マツダ・クラシックカー博物館フライに収蔵展示されていたのは白いボディカラーのロードペーサーAP。自分で運転するパーソナルユースなら、ボディカラーは黒よりも白。これは昔からの定番で、トヨタがクラウンに2ドアハードトップを初めて導入、フリートユースだけでなくパーソナルユースも訴求していこうと、ナイスミドルと呼ぶに相応しい山村総さんをCMキャラクターに“白いクラウン”をアピールしていたことが思い出される。
ちなみに、日本国内では単にロードペーサーと命名されていたが、ヨーロッパでは、公害対策(=排気ガス浄化)を徹底したモデル、ということをセールスポイントとし、ロードペーサーAPとなっていたようだ。