富士GCで記憶に残る美しいマシンが、
レプリカとなって現代へ蘇る
鈴鹿サーキットで行われた「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE 2018(SSOE)」では、製作途上だったが、その完成に一層期待の高まったマシンが『紫電77(レプリカ)』だ。
紫電77といえば、1977年に富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズにデビューしたグループ6のクローズドクーペ。このマシンの生みの親である「ムーンクラフト」が、当時のマスターモデルを使って、自ら製作を手掛けているのが最大のポイントだ。
ここで少し、富士GCシリーズについて紹介しておこう。
富士GCシリーズとは?
富士GCシリーズとは、1970年代から80年代にかけて主に静岡県の富士スピードウェイで開催されていたレースシリーズ。
1970年当時の車両規則では、グループ6に分類されるオープン2シーターで2リットルのレーシングエンジンを搭載したレーシングスポーツカーが使用された。60年代に国内最大のレースとされていた日本グランプリが70年に中止となり、それに代わるカテゴリーとして誕生したレースだ。
当初は排気量無制限のグループ7から、フェアレディなど市販車をチューニングしたGT(グループ4)までが混走する、言わば“何でもアリ”の状況だった。
その後はオープン2シーターのレーシングスポーツのみ参加が許される本格的なカーレースとなり、F2000(~1977年)からF2(78年~86年)、そしてF3000(87年~)と移行。フォーミュラと双璧をなす国内トップカテゴリーに成長し、当時のモータースポーツファンの間では、『F2(もしくはF3000)とGCにフル参戦しているのがトップドライバーの証』とされていた。
そんな富士GCでは、70年代中盤からは英国のコンストラクターでF1GPにも参戦した「マーチ」社が製作したシャシーにBMW製の直4エンジンを搭載したマシンが主流となっていた。
結果は、73年から4年連続してマーチ・BMWがチャンピオンを獲得。それも、長い直線を持つ富士スピードウェイに合わせてカウルワークを改良した“富士スペシャル”が上位を占める結果となっていた。
そして75年と76年に2年連続してチャンピオンに輝いた高原敬武さんが、77年に向けて新たなステップを踏み出す。それが紫電77だったのだ。
こちらがオリジナルの紫電77の勇姿。1977年の富士GCでの1シーンで、高原選手がシェブロンの鮒子田寛選手をリードして高速の100Rに向かっている。唯一のクローズドクーペは、美しく、存在感も充分。
(画像:富士スピードウェイ・広報部提供)。