共産体制の影響を大きく受けた
タトラT600からT700までを振り返る
前回は、典型的なタトラ(チェコの自動車メーカー)としてリアに空冷の水平対向エンジンを搭載し、空気抵抗を低減した…結果的には甲虫のようなルックスとなったモデルのうち、第二次世界大戦前のモデルを取り上げて紹介【過去記事:チェコが生み出した傑作と悲しき運命】したが、今回は戦後に登場したタトラ、戦前に登場した大型乗用車をより正常進化させたモデルたちを紹介しよう。
ちなみに、同社で戦前に開発の指揮を執ってきたハンス・レドヴィンカは戦後、共産主義国家として再出発したチェコスロバキア共和国において、戦時中にヒトラー=ナチに協力した戦犯として1951年まで抑留されていた。そのためレドヴィンカに薫陶を受けた部下たちが、彼の設計哲学を継承し、戦後モデルを開発していったのだ。
ただし、タトラとシュコダ、そしてプラーガというチェコの3大自動車メーカーが、戦後はすべて国営企業化。シュコダは小型乗用車、プラーガはトラックの専業メーカーとされ、タトラも中大型乗用車を生産するのみと活動が制限されることになった。そしてタトラは戦前からあったT87の製造を再開しながら、戦後モデルが登場する。
タトラにとって初の戦後モデルとなったのは、1947年に登場した「T600」。戦前とは異なる新しい命名法では100番台がトラック、300番台が鉄道車両、500番台がバスとなり、乗用車は600番台とされたが、そのトップバッターとして登場したのが“タトラプラン”の愛称を持つ大型の4ドアセダンだった。
各所に手が加えられ、見慣れたせいもあって幾分はコンサバにもなっていたが、基本的なエクステリア=スタイリングは戦前のタトラT77に端を発するストリームラインを継承したもの。エンジンカウルにはやっとリアウインドウも設けられたが“背びれ”は残されていた。
シャシーはもちろん、フロアパネルと一体化されたセンタートンネルを主構造材とするバックボーン・フレームで、その後端に空冷の水平対向4気筒エンジンを搭載するのはT97から継承されたパッケージだった。ただし新エンジンの排気量は2リットル。1.8リットルのT97より幾分引き上げられたのだ。
【Tatra T600 Tatraplan】
「T600“タトラプラン”」。このタトラ初の戦後モデルは、戦前のT87と、ヒトラーから生産中止を命じられて戦前に姿を消していたT97の中間にという立ち位置で開発。エンジン形式(レイアウト配置)や排気量を考えると、メカニズム的にはT97後継と呼ぶべきかもしれない存在だ。これはT87の戦後モデルでも採用されていたが、フロントにダミーグリルが追加された結果、フロント・エンジン車的にも映る。
フロントのウインドウは左右セパレートの2枚式だが、センター部分にピラーはなく、ゴム製のウェザーストリップで繋がれている。また、リアビューではエンジンカウルにウインドウが設けられたのが大きな特徴。エンジンルームの直前、リアのバルクヘッドにも窓が設けられているのは従来通りだ。
随分と控え目にはなったが、それでもリアの“垂直尾翼”が、T77を源流とする、その出自をアピールするかのように思えてならない。コプジブニツェのタトラ技術博物館で撮影。
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