ホイールベースの短縮でハンドリングを改善
69年5月、4ドア版GT-Rのデビューレースでは、ワークスドライバーの参戦が許されず、若手が何とか優勝するも後味の悪さが残った。だが、その後はワークスドライバーが連戦連勝。熟成が進んだことで若手のプライベートも安定して好成績を残すようになった。
70年10月にハードトップモデルが登場して以降、ワークスドライバーはこちらの開発と熟成に専念。70年には高橋国光が4ドアGT-Rで全日本選手権をパーフェクトで制する離れ業を見せたが、71年には長谷見昌弘が2ドアハードップGT-Rで、やはり全日本選手権を制している。ここまでライバル不在の独り勝ちだったが、71年の後半からはマツダのサバンナの「ロータリー軍団」が力をつけてきて毎戦のように好バトルが展開されることになった。
主戦場は富士スピードウェイ。30度バンクを使った右回りの6kmコースではGT-Rが優位を保っていたが、左回りの4.3kmコースではロータリー勢が肉薄。そんな繰り返しの末、72年3月に行われた富士グラチャンのサポートレースで高橋国光が通算50勝をマークしたのである。
ちなみに、この勝利数には諸説あるが、ホイールベースが短縮されハンドリングが改善されたGT-Rの2ドアハードトップ仕様が、究極のレーシングカーであったことは紛れもない事実なのだ。(濃緑の幅広ストライプに白いゼッケンサークルを重ねた8号車は、71年日本GPの長谷見仕様。ブルー&ホワイトに塗り分けられた15号車は、72年に50勝をマークした時の国光仕様)