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トヨタ・セリカXXがスープラとしてレース初参戦した理由とは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了、富士スピードウェイ、Auto Messe Web編集部 増田貴広

後継の70系がデビュー・レース・ウィン

 1985年のインターTECでほろ苦デビューを果たしたスープラ/XX(A61)は、翌86年シーズンも引き続きJTCに参戦。しかし、その後も好成績を残せすことはできなかった。そして同年2月に次世代の新型スープラ(MA70系)に移行。8月に追加設定されたブリスターフェンダーのワイドボディを持つ『3.0GTリミテッド』をベースに、グループA仕様が開発されることになった。

 NAの2.8リッターエンジンで苦戦した先代スープラ/XX(MA61)の轍を踏まぬよう、3リッター直6ツインカムターボの7M-GTEUを搭載。オリジナルの230馬力から280馬力(公称)へとチューニングされたが、実際には400馬力近かったようだ。

 そんなMA70スープラのレースデビューは鮮烈なものとなる。舞台となったのはJTCのシリーズ第5戦・スポーツランド菅生。事実上のトヨタ・ワークスであるトムスから2台が参戦。ドライバーは36号車がアラン・ジョーンズとエジェ・エルグ、37号車がジェフ・リースと星野 薫だ。

 予選では36号車が、すでに2勝を挙げている三菱スタリオン・ターボに次ぐ予選2位を奪い、前年度のチャンピオンマシン、日産スカイラインRSターボ(R30型)を挟んで、37号車も4番手。デビュー戦としては上々の滑り出しとなった。決勝では37号車がトラブルに泣いたが36号車は、スタート直後にトップに立つと以後は快調に周回。ライバル車が次々とトラブルに見舞われて後退していくのを横目に、そのまま300kmを走りきってデビュー・レース・ウィンをはたすことになる。

 写真は富士通テン・カラーで90年に出場した37号車。車両は88年から登場しているフロントバンパー中央部分にエアダクトが設けられたエボリューションモデルだ。開幕戦こそ関谷正徳/小河等のエースコンビがドライブしたが、以後はそれぞれが当時の若手である黒沢琢弥や舘 善泰らを指導する格好でドライブしていたものだ。

 87年のJTCでデビューウィンを飾った初代スープラ(MA70)だったが、翌88年にはFIAの車両規則が変更され排気量のターボ係数がそれまでの1.4から1.7に引き上げられることになった。3リッターターボのスープラは4.2リッターから5.1リッターへとクラスが嵩上げされることになり、最低車両重量も1325kgから1420kgへと100kg近くもアップ。この車重アップの規則はシビアすぎるものだった。

 その後、エアダクトを追加し、ターボを変更してエンジンをパワーアップさせたホモロゲーションモデル『ターボA』を投入したものの、ウェイトによる課題は大きく響き、2勝目をマークすることなくMA70スープラは現役を引退する。スープラは、次なる全日本GT選手権レースの時代までしばし雌伏してゆくことになる。後編に続く。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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