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セリカLBターボやスカイラインGT! 昭和を代表する名レーシングカー6選

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TEXT: 藤田竜太(FUJITA Ryuta)  PHOTO: Auto Messe Web編集部/童夢(零RL)/富士スピードウェイ(セリカLBターボ)

今なおファンに語り継がれるモデル

 日本最初の自動車レースは、1914年(大正3年)に東京の目黒競馬場で行われたとされる。その後、1936年に神奈川県に「多摩川スピードウェイ」が完成し、日本初の本格的なパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットが完成したのが1962年。その鈴鹿で第一回日本グランプリが開催されたのは1963年のことだった。

 それから今日まで、沢山の名レースが繰り広げられ、また歴史に残る国産レーシングカーも生まれている。その何台かを振り返ってみよう。

プリンス・スカイラインGT(S54B) 1963年

 1964年の第2回日本グランプリで、ポルシェ904と一騎打ち。最強最速のポルシェを国産の4ドアセダンのスカイラインが、抜いてトップに立ち、大観衆を大いに沸かせた。最終的にはポルシェの圧勝で終わったが、一瞬でもポルシェに勝って一太刀浴びせたスカイラインはまさに英雄。このレースから「スカG」伝説がはじまった。

 このS54Bのベースは1.5リッター直4エンジンを搭載した2代目スカイライン。それにエンジンルームを無理やり広げ、2リッター直6のグロリア用エンジンをぶち込んだのが、レースに勝つために生まれたクルマ=スカイライン2000GT-Bだった。 ちなみに2代目スカイラインまでは、プリンス自動車のクルマ。1966年に日産とプリンスが合併。スカイラインは、3代目となるC10型(通称ハコスカ)から日産車となった。

 

ホンダRA272 1965年

 1960年代、1.5リッター時代のF1グランプリに、日本から初参戦していたホンダの第一期F1参戦で、初優勝を果たしたマシン。1965年のメキシコGPで優勝している。車体設計は佐野彰一。当時としては画期的なジュラルミンモノコックで、1.5リッターV12気筒、230馬力のエンジンを横置きにし、エンジンとサスペンションをスペースフレームで支えるという独自の設計が光っていた。

 メキシコGPで優勝した際、中村良夫監督が、ホンダ本社に送った電報、「来た、見た、勝った」という文面は有名だ。タイヤはグッドイヤーで、この勝利はグッドイヤーにとっても、F1初勝利だった。

トヨタ7ターボ 1970年

 トヨタ初の本格的レーシングカー、トヨタ7の最終モデル。当時、トヨタワークスは日産ワークス、そして滝レーシング(マシンはローラ)と熾烈な覇権争いを繰り広げ、TNT対決と呼ばれていた。そんなトヨタが威信をかけて、ヤマハと共同開発し(開発・製作はヤマハ)、70年の日本GPとCan-Amを戦うために作った、日本で最初のターボ付きのレーシングエンジンを搭載したマシン。

 5リッターV8、DOHCにギャレット・エアリサーチ製ターボをツインで装着。800馬力以上のパワーで、最高速は360km/hに達した……。しかし、テスト中にトヨタのワークスドライバーだった河合稔が鈴鹿で事故死。実戦に投入されることはなかった。

コジマKE007 1976年

 1976年のF1世界選手権イン・ジャパンの参戦を目指して開発された、純国産F1マシン。設計は小野昌朗。エンジンは市販のコスワースDFV、タイヤは日本ダンロップという組み合わせで、予選で一時4位のタイムをマーク。そのあと、スリップストリームを使って、コースレコードのポールポジション確実というセクタータイムを記録しながら、最終コーナーでサスペンションが折れて大クラッシュ……。国産マシン、日本人ドライバー、そしてF1デビュー戦でのポールポジションは幻に終わった。

 ちなみに決勝は大雨。映画「ラッシュ」でも描かれた、ラウダとハントのチャンピオン争いの決着の舞台となった。

童夢 零RL 1979年

 日本で唯一のレーシングコンストラクター、童夢が初めてル・マン24時間にチャレンジしたマシン。エンジンはコスワースDFV。車体設計は小野昌朗が担当。ゼロから開発をスタートし、約半年で完成させた。完全なプライベートチームながら、1980年のルマンで25位で完走している。

 スーパーカーブームのときに人気を博した、童夢 零の名前でレースに参戦したことで、スーパーカーエイジも注目していたレーシングカーだった。その後の童夢のル・マンへの挑戦は、このクルマからはじまっている。

トヨタ・セリカLBターボ 1979年

 当時人気のあったシルエットフォーミュラ=グループ5用に開発されたマシン。もともとはドイツレーシングカー選手権(DRM)で無敵を誇った、ポルシェ935に対抗するためにシュニッツァーが製作。それをトムスが逆輸入し、富士インター200マイルレースでトムスの代表、舘信秀のドライブで優勝。

 エンジンは2.1リッター直4DOHCの18R-G改(ベースはトヨタ製2リッター)にKKK製ターボを装着。560馬力のパワーがあった。タミヤが1/12の電動ラジコンを作ったので知名度も高く、人気があった。

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  • 藤田竜太(FUJITA Ryuta)
  • 藤田竜太(FUJITA Ryuta)
  • モータリング ライター。現在の愛車:日産スカイラインGT-R(R32)/ユーノス・ロードスター(NA6)。物心が付いたときからクルマ好き。小・中学生時代はラジコンに夢中になり、大学3年生から自動車専門誌の編集部に出入りして、そのまま編集部に就職。20代半ばで、編集部を“卒業”し、モータリング ライターとして独立。90年代は積極的にレースに参戦し、入賞経験多数。特技は、少林寺拳法。
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