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ミスターBMW Studie 鈴木BOB康昭氏 インタビュー 【afimp×Auto Messe Web 連載企画 第4回】

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TEXT: 山田弘樹

スタディ「多店舗展開」の時代へ突入!

 afimp1月号(2018年12月10日発売号)とafimp3月号(2019年2月10日発売号)で掲載しました”afimp web”連動企画、スタディ鈴木BOB康昭氏の半生を語るロングインタビューの第4回目をお届けいたします。

「afimp 3月号」(2019年2月10日発売)掲載前号のあらすじ

主人公は、BMW専門プロショップ「スタディ」の創始者である鈴木康昭氏(すずき・やすあき)。
1968年7月30日生まれの50歳。神奈川県横浜市生まれの鈴木氏が1995年、東神奈川のマンションの一階で産声を上げたスタディの創立から、VWやアウディのチューニングを得意とするコックスと出会い、レーシングダイナミクスで始まったBMW人生。
そして、BMW専門プロショップスタディをスタートさせ、インターネット時代とE46型3シリーズでブレークした。

 

全国からM3ユーザーたちが押し寄せた

「スタディの第一期黄金期を支えてくれたのは、E46のM3だったよね」
 今や貴重な存在となった3.2リッター自然吸気のストレートをリッター100馬力オーバーまで磨き上げ、グラマラスなボディに搭載した第三世代のM3。その、速さと迫力のふたつを兼ね備えたBMWは、スタディのチューニング史において“一番熱かった時代”を作り上げた。これをベースに、さらに低く。さらに速く、さらにカッコいいM3を作りたい! と願うM3ユーザーたちが、全国からスタディへと押し寄せたのである。

 そしてこのときから鈴木サンは、スタディの「多店舗展開」を意識し始める。
「もうね、横浜店は来るお客さん来るお客さんが、全て濃いの(笑)。全国からすんごいBMWマニアがやってくるんですよ。中には『鈴木サンの好きなように、仕上げてください!』ってポン、とクルマとお金を置いてっちゃうような方もいるほどでね。
 そしてこれを、こっちも本気で迎え撃つわけ。そのやりとりがとても楽しかったな!」

スタディの基本とはお客さんと同じサイドに立つこと

そして鈴木サンは、全国から来るお客さんの様子から、ある特徴を確信した。
地方には地方特有の、チューニングの方向性があるというのだ。
「これはコックス時代から勉強していたことなんですけれどね。
 たとえば東北だと、あまり外観を派手にするよりは『中身で勝負!』という雰囲気が強いのね。だからお客さんが乗っているクルマは、機能パーツのレベルがすごく高い。 かたや関西に行くと、確実に車高が低かったりね(笑)。つまり地方には地方のイジり方がある。それを理解した店舗を出せば、よりお客さんと深く理解しあえるんじゃないかな? と考えるようになったんだ」
スタディとしての基本さえ踏襲すれば、あとは地方の特色を思いっきり出して行こう。ところでスタディの基本とは? と訪ねると「教える人、習う人という感じじゃなくて、お客さんと同じサイドにふたりで立つこと」であるという。

 そしてここからが天才の、天才たる所以だと言えるのだが……。驚いたことに鈴木サンは、その地方店舗の店長に、横浜店にやってきていた“常連さん”をブッコ抜いたというのである!

「仙台店の熊谷も、名古屋ベイ店の相澤も、当時のイッチバン濃かったお客さまですよ(笑)。彼らは自分と同じように、BMWが好きで好きで仕方がない人たち。日本で一番のBMWショップを目指したんだからさ、やっぱりそういう人たちと一緒に仕事をやる方が絶対いいでしょう?」と屈託なく笑うのだ。

「いま副社長をやっている森井サンだって、『大阪からスタディ行くのは遠くて大変だよ!』って言ってたお客さん。だからボクは『じゃあスタディやってよ!』って言ったんだ(笑)」これぞ鈴木サンの、人なつこいキャラクターがなせる技。

 そして鈴木サンの読み通り各店舗の店長たちは、個性あるキャラクターでホームページを構築、ブログを配信し、各地方のBMWユーザーたちと濃密なコミュニケーションを取ることに成功した。そしてスタディは着々と多店舗展開を成功させ、いまや日本国内では横浜・東京・神戸・名古屋ベイ・仙台の5店舗を展開し、系列店である「キドニー」と提携。さらに現在は中国やマレーシアなど、アジア各国からのオファーや店舗展開を視野に入れるまでになったのだった。

「24年間でも2回くらい倒産しかかってるからね」

 スタディのこれまで全てが、「決して順風満帆だったわけじゃない」と鈴木サンは語る。
「そこまでのボクは、コックスという偉大な先輩がやってきたことを、BMWで同じようにやっただけ。基本的にボクは経営には向いてなくて(笑)、これまでの24年間でも2回くらい倒産しかかってるからね! でもみんなに助けられて、ここまでやれてきた」

 とはいえこの苦しい時代に25年間チューニングショップとして活躍し、今では世界的なチューナーとなれたことには、きちんとした理由があるはず。それはずばり何なのか? と訪ねると鈴木サンは、しばらく沈黙して考えたあとこう答えた。

「ボクは人が好きなんだと思う。あとは基本、ポジティブ(笑)。これには若い頃本気でやっていたテニスが大きく関係していると思うよ。何かあっても『こんちくしょう!』って踏ん張れたのは、あの頃のおかげだなぁ。人間って、失敗すると強くなれるからね」

「まじめな話をすれば、あとは“時流”を読むこと。アフターマーケットって、二次産業なわけですよ。やっぱり第一次産業であるクルマありき! です。だからその方向性、つまりBMWで言えば新型車の動向を見極めて、誰よりも早く情報を得ることが大切だと思う」
だから鈴木サンは、レースを始めたのだという。時流を読むためにレースをする? 一見関係ないようなこのふたつは、しかし強く結びついているのだった。

スタディがスーパーGTの扉を開くキッカケとは

「『メーカーとより近い立場にいたいなら、レースをやりなさい』。そう、渦尻サン(現コックス社 社長・渦尻英治氏)に言われたんだ」

 最新の情報を得るために必要なのは、メーカーとより密接な関係を築くことである。
 それはいまや一流サスペンションメーカーとなった「KW」(カーヴェー)や、2輪マフラーメーカーから総合マフラーメーカーへと成長した「アクラポビッチ」の姿を見ても明らかだ。それを今から何年も前に、スタディは意識していた。

「ボクもコックス卒業生だから、モータースポーツとは切っても切れない関係だとずっと思っていた。でも本業が忙しすぎて、その世界に踏み込むことができなかったんだ。僕たちがスーパーGTへ参戦したのは2008年だから、オープンから13年も時間が経っているわけです。本当ならもっと早くても良かったよね」

 さらに参戦すべきレースに、ちょうどよい規模のカテゴリーがなかったことも、スタディの決断を遅らせていたのだという。

「あの頃のスーパー耐久はまだ自分たちをアピールするレースとしては魅力的ではなかったし、逆にスーパーGTは敷居が高すぎて『とてもとても……』という感じ。今さら草レースに出るのも違うし、(モータースポーツを)やりたくても出られるカテゴリーがなかったんだよ」

しかしその鈴木サンに、ひとりの男が勇気を与えた。
「それが雨サンなんだよね」雨サンこと雨宮勇美氏。ご存じロータリー・チューナーとして名を馳せる「RE雨宮」のボスである。
「同じチューナーである雨サンが2006年にGT300クラスのチャンピオンを獲得したのを見て、本当に感動したんだ! オレも雨サンみたいにやれる、やりたい!って思った」
そのときちょうど、GT300クラスのエントラントに空席ができたという話が舞い込んできた。話はトントン拍子に進み、スタディはなんとスーパーGTへの扉を開いたのであった。  続く。
       

afimp×Auto Messe Web
連載企画 第5回目は
afimp5月号(4月10日発売)へ続きます。

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