施設へ出向いて生の声を聴きいている
トヨタの福祉車両であるウェルキャブは、国内自動車メーカー最多の車種と仕様・タイプを揃える。他の自動車メーカーも、近年福祉車両に力を入れているが、たとえば福祉機器展などに出向くと、トヨタとの格差は一目瞭然だ。トヨタは、なぜそこまで福祉車両の開発と製造に力を注ぐことができるのか。
理由は、人の存在にある。福祉車両の製品企画を担う中川茂主査は、全身全霊を賭して福祉車両の普及に力を注いでいる。自ら福祉車両開発へ異動を申し出たほど熱意の溢れた彼なくして、トヨタといえども福祉車両をこれほどまで充実できなかったかもしれない。
中川主査は、とにかくじっとしていない。クルマに限らず製造現場であたりまえのように語られる三現主義=現場・現物・現実を日々実行。福祉車両を必要としている人や団体、施設へ出向いて生の声を聴き、福祉車両を使っている人の家にも行って使い勝手を確認し、なおかつ介護する人たちの偽らざる声にも耳を傾ける。こうして、中川主査の頭の中で本当に必要とされる福祉車両の姿が具体化されていく。
その実現のため、新車開発の現場を訪れ担当チーフエンジニアと膝詰め談判までして設計変更を依頼し、生産現場で福祉車両への対応を視野に入れた製造ができるようにしていく。それによって、一旦出来上がったクルマを福祉車両に改造する手間と追加の原価を削減し、福祉車両の価格を手に届く金額にまで下げる努力をしている。
たとえば、ラクティスの場合、リアハッチゲートを開けて車いすで乗り込む際に頭が天井の角にぶつからないよう、あらかじめ屋根を高くする造形を新車開発時に実現してもらった。
なおかつ、助手席を前方へチップアップさせる機構を採り入れることにより、通常は後席の位置に設置される車いすを、より運転席に近い1.5列目的な位置まで車内で前進できるようにすることで、運転者と同乗の車いす利用者とが容易に会話できるようにした。子供や高齢者など、車内での世話を必要とする場合などにおいて、彼らの様子を運転者が確認しやすくもなるわけだ。
価格を下げること、また車内での会話や様子見をしやすくするなどの改善を福祉車両に施していったが、そこに新たな課題が浮かび上がってきた。それは、介護する側の声である。
高齢者介護の場合、福祉車両を購入しても時間を経ずして必要がなくなった際、手に入れたばかりの福祉車両の処分をどうするか迷い、その結果購入を控えたとの話が家族から出た。福祉車両に限らずクルマの購入は少なくない支出を伴うので、より高価な福祉車両の購入はなおさら慎重を期する思いがある。そこで、中川主査が取り組んだのが、福祉車両の普通のクルマ化である。
福祉車両としての用途が必要なくなった場合には、簡便に普通の乗用車の使い勝手に戻せるようあらかじめ設計しておくことで、その後も永く愛車を使い続けられるようにしたのだ。この取り組みも、新車開発の設計者や生産現場との協力が不可欠である。その折衝を自ら買って、中川主査は行動を起こし、実現した。
たとえば3列ミニバンの3列目の座席をあとで取り付けるための構造をあらかじめ設定しておき、当初は3列目の位置に車いすが乗れる機構を設けているのである。福祉車両としての役目を終えた後も、3列ミニバンとして普通に使うことができるようになる。
こうした福祉車両そのものの改善と合わせて中川主査が手掛けたのが、車いすで乗り込んだ際に下肢に力の入りにくい人が体を安定させることのできる、ウェルチェアと呼ぶ車いすの開発だ。これは別稿にて紹介している。
ほかにも、高齢者の乗降のためのリフトアップシート車両では、狭い場所でも利用できるよう、クルマからの座席のせり出しを少なくしながら、乗り降りも楽にできる機構を採り入れている。日本は、道路が狭かったり、私道の奥に家があったり、駐車場の枠が狭かったりする場合が多く、そうした場所でも福祉車両を利用しやすくするための改善だ。
さらに、これから需要が高まると思われる高齢化社会での地域の交通手段として、従来の福祉車両とはやや視点を変えた移動手段のため中川主査が考案したのが、ウェルジョインと呼ばれる、ミニバンを使った移動車両である。公共交通機関がなく、クルマで移動しなければならない地域で、タクシーなどに依存するしかない高齢者のため、共同で運行する移動車両のため開発されたのがウェルジョインだ。
通常の3列シートのミニバンでは、3列目への乗降に際し2列目の人がいったんクルマを降りるなどの手間がかかる。乗降自体が不自由な高齢者に、停車の度に乗り降りさせるのは忍びない。そこで、2列目の座席のスライドドア側を一席取り除き、2列目への乗降をいつでもできるようにしたのがウェルジョインだ。発想は単純だが、通常のミニバンではありえない2列目座席のつくりである。
以上の取り組みは、まだ他の自動車メーカーでは見られない。これも、三現主義を愚直に実行する中川主査の存在と、その熱意の賜物であろう。トヨタの福祉車両充実の裏には、このような真摯な努力があるのである。