日本が世界に誇れるプロダクト
登場から12年。それほどの長い年月を経てなお、日産GT-Rは進化し続けている。
2019年7月8日、日産はドイツのベルリンでGT-Rニスモ 2020年モデルの国際試乗会を開催した。そこに招かれた筆者は、一新されたGT-Rニスモに触れて、改めてGT-Rが進化し続けていることに驚かされた。そして同時にこのクルマがいまだ一級であり続けていられるその裏側には、開発者たちの深い愛があるからこそ、と感じたのだった。
日産GT-Rはご存知のように、2007年に衝撃的な復活を果たした。それまでの”スカイライン”という名を捨て、当時カルロス・ゴーンの手によってまさにリバイバルしつつあった日産というブランド名に続き、「GT-R」というネーミングのみを用いて世に送り出された。
そして登場してすぐに、世のスーパースポーツを凌駕するほどの圧倒的な性能によって、GT-Rは瞬く間に世界から注目される存在となった。そんなGT-R(R35)を手がけたのが、水野和敏氏だ。
水野氏は独自のユニークな発想とレーシングカー設計の経験を活かして、いまや生きる名車ともいえるR35を世に送り出した存在である。
しかもR35が生まれた背景には、例えばヘビー級ともいえる車両重量がスポーツカーとしての走りに活かされているという理論をはじめ、ともすれば世のスポーツカーの常識に反するような”水野理論”によって構築されていたのも特徴だった。
それゆえに、R35はある意味で”水野GT-R”ともいえる存在といえるほど。しかし、水野氏は日産を退職。2013年からGT-RのCPS(チーフプロダクトスペシャリスト)を受け継いだのが、田村宏志氏である。
R35GT-Rの生みの親として水野氏は有名だが、田村氏はさらにそれ以前からGT-Rを手がけていた人そのもの。第2世代のスカイラインGT-Rの時代では、R34型の時に”Mスペック”をプロデュース(水野氏も関わった)。2001年は、東京モーターショーに出展されて大きな話題を呼んだ”GT-Rコンセプト”は田村氏の提案によるもので、後のR35の雛形ともいえるものだった。
田村氏は水野GT-Rを受け継ぎ、送り出したのが2014年モデル。それまでの水野GT-R時代も、後半では派生モデルやグレードを追加し始めていたが、2014年モデルでこれまでの路線と圧倒的に異なるものといえば「ニスモ」バージョンの追加だろう。
これによってGT-Rは以降、標準モデルとサーキットモデルというような分け方がなされていくことになったわけだ。