インディレースのエンジニア・ゴッドファーザーか
モータースポーツといえばF1が最高峰と言われていますが、古くから世界3大レースと言われてきたものがあります。モナコ公国の公道を舞台にしたF1のモナコGP、耐久レースとして誰もが知るル・マン24時間耐久レース、そして楕円的コースレイアウトのオーバルコースでスピードを競うインディアナポリス500マイルレースです。”インディ500″と称されるレース速度は、いまや決勝時の平均速度は時速350km/hオーバーという驚くべきもの。
インディ500は、アメリカを代表するレースにも関わらず、日本には馴染みがありません。しかし、今年で103回目の開催となるインディ500では、佐藤琢磨選手が驚異の追い上げで3位入賞。佐藤選手はなんと2017年に日本人として初優勝もしています。
今回はスピード勝負の典型、アメリカを象徴するレース、”INDY500マイルで優勝の前輪駆動のマシンがありました”、というお話を紹介しましょう。
“前輪駆動はレースに不向き”は関係なし
クルマを動かす駆動システムとして、1960年前後から世界的に普及が進み、現在はほとんどの小型乗用車に採用されている駆動レイアウトが前輪駆動です。ちなみに、国内ではFFの呼び方で馴染まれていますが、海外ではFWD(Front Wheel Driveの略)が一般的です。
FWDの長所はエンジンから駆動系まで含めたメカニズム部分をフロントノーズの中にコンパクトに収めることができスペース効率が良いことでしょう。そのためもあってか小型車から普及が始まり、やがて大型乗用車にも浸透していくことになりました。
反対に短所ですが、前輪が進む方向の操舵と動力伝達の駆動を受け持つことから、後輪駆動に比べるとハンドリングが厳しい、というのが通り相場です。実際にエンジンをフロントに搭載するか、ミッドシップに移動させるかは別にして、レーシングマシンは総て後輪駆動じゃありませんか、と多くの専門家(そう呼ばれる、あるいはそう言い張る人も含めて)は声を揃えています。
がしかし、長い歴史の中では前輪駆動がサーキットで威力を発揮、後輪駆動を制してレースの総合優勝を飾ったケースもなくはないのです。
エンジン・ビルダー/チューナーとしてスタートしたミラー
今回のストーリーで主役となるのはアメリカ人エンジニアのハロルド・アーミニアス・ミラー(Harold Arminius Miller)。一般的には愛称の”ハリー・ミラー”で通っているので、以後は愛称で話を進めることにします。
オールズモビルでレースメカニックの修業をしたハリー・ミラーは、後に独立して自動車整備を続けながら、キャブレターの製造販売を手掛けて資金を調達すると、1920年代にはレースエンジンの製作を実施。直列4気筒ながらツインカム16バルブと当時は凝った”構造”でしたが、プジョーやデュセンバーグのレーシングエンジンで、こうしたエンジン整備を手掛けてきた彼には、ごく当たり前だったのでしょう。
1922年のインディ500マイルレースでは、このエンジンをデュセンバーグ製のシャシーに搭載。ジミー・マーフィーが優勝したのですが、こちらは後輪駆動でした(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ殿堂博物館で撮影)。
ミラー想いはシャシーにも発展
自ら製作したエンジンが早い段階で、INDY500優勝という結果を残したことで、ハリー・ミラーの技術者魂には火がついたようです。そう、エンジンの次はシャシー。エンジニアの想いは、前輪駆動というそれまでにあまり例のないレイアウトのシャシーを製作することに発展していったのです。
そうして完成したのがミラー・ジュニア8レースカー。通称”タイプ122″と呼ばれるマシンは25年のINDY500に登場すると予選で5番手につけ、決勝レースでもトップ争いを展開。200周レースの50周でリードラップを獲るなど韋駄天ぶりで、堂々の2位でレースを終えたのです。
じつは、インディレースのオーバルコースではステアリングの操舵角が余り大きくありません。このためフロントのジョイントをあまり気にせずに済んだこと、さらには当時のエンジン規定が何度か変わり、それまでの勢力図が一新されたことも有利に働いた要因でしょう。しかし、それでもデビュー戦で予選5位/決勝2位の成績は、ハリー・ミラーの名声をさらに高めました。もちろん、新たに登場した前輪駆動というメカニズムに対する注目も、一気に高めることになったことは紛れもない事実だったのです(上写真の1925年式ミラー・ジュニア8レースカーはインディアナ州のオーバーンにあるオーバーン・コード・デュセンバーグ自動車博物館で撮影)。
前だけじゃない、後輪駆動でも優勝
ハリー・ミラーは前輪駆動のタイプ122と同時に後輪駆動仕様も製作。1928年、後輪駆動仕様のミラーがINDY500を初制覇しています。モノを作っている時は熱中していながら、一度それが出来上がってしまうと”熱”が覚めてしまうエンジニアも少なくありません。
ハリー・ミラーもそうだったのか、28年にINDY500を初制覇した彼は一転してボート用のエンジンを着手。それが完成したらボート用のエンジンをベースとして自動車用にコンバートし、速度記録にも挑戦しているのです。
33年には事業が破たんしてしまいますが、以前のパートナーだったフレッド・オッフェンハウザーが事業を継承。請われて参加したハリー・ミラーも一緒にオッフェンハウザー、通称“オッフィ”エンジンを製造し、こちらはINDY500でなんと27回もの優勝通算最多記録を樹立することになるのです。
一方、ハリー・ミラーの手を離れたクルマは、新しいオーナーによって一層の好結果を残すことに。それまでINDY500で未勝利だったタイプ122は、30年にビリー・アーノルドがドライブし、前輪駆動車としてINDY500を初制覇。さらに32年から3連勝を飾っているのです。ハリー・ミラーの、エンジニアとしてのポテンシャルを示していったのは間違いないでしょう(ミラーとして初優勝を飾った黄色いボディの1928年式とFWDとして初優勝を飾った白い1932年式、ともにインディアナポリス・モーター・スピードウェイ殿堂博物館で撮影)。
またハリー・ミラーは再度、フォードからサポートを受けてFWDのミラー・フォードV8を製作しています。1935年式ブラック&ホワイトの#43号車はミシガン州のディアボーンにあるヘンリー・フォード博物館で撮影。そして、オーバーンにある初期型フォードV8のホワイト&ブルーの個体には何とキッズカーまであるのには驚かされました。