ポルシェやアウディでもレジェンドを打ち立てているフェルディナント・ピエヒさん
スポーツカーメーカー、ポルシェの生みの親であり、VWビートルの開発者としても知られるフェルディナント・ポルシェ博士の孫で、ポルシェで技術者として腕を奮った後、アウディに移籍し技術開発部門のトップを任され、後にはアウディに加えてVWでも重職を務めたフェルディナント・ピエヒさんが8月25日、亡くなられました。亨年82歳でした。
ポルシェの1970年ル・マン初優勝となるポルシェ917も開発
1937年の4月、オーストリアはウィーンで、ポルシェ博士の長女、ルイーゼ・ピエヒさんと、弁護士であるアントン・ピエヒさんの間に次男として誕生したピエヒさんは、チューリッヒ工科大学を卒業後、1963年にポルシェに入社。翌年にデビューするポルシェ904を手始めに様々なレーシング・スポーツカーを手掛けることになりました。
その後も技術開発グループのチーフとしてポルシェ908や910など2リッター級のグループ6レーシングスポーツを開発し、国際マニュファクチャラーズ選手権で活躍しています。
さらに68年には翌シーズンの世界メーカー選手権用に総合優勝を狙うべく4.5リッター水平対向12気筒エンジンを搭載したポルシェ917を開発しています。
25台が生産されホモロゲーションを受けた917は、69年シーズン半ばにデビューし、最終戦のエステルライヒリンク(オーストリア)で行われた1000kmレースで初優勝。翌70年にはワークスチームは活動を休止したものの、ワークスマシンを託されたJWオートモーティブ・エンジニアリングがガルフ・カラーを纏って大活躍。全10戦中7戦に勝利、さらにポルシェ・ザルツブルグ・チームも2勝を挙げてライバルを一蹴。またポルシェにとって悲願だったル・マン24時間レースの総合優勝も果たすことになりました。
71年に登場した進化型の917/20はそのポッチャリとしたルックスが豚に似ていると言われボディ各部に豚肉の部位名が描かれて話題になったことは、古くからのモータースポーツファンにはおなじみのエピソードですね。
また72年以降は5リッター以下のスポーツカーが世界メーカー選手権から締め出されることになったために、917は北米を主体に戦われていたCan-Amシリーズにも参戦することになりました。こちらは水平対向12気筒エンジンにターボを装着してパワーアップ。最終進化型の917/30 Spyder最高出力が1100馬力に達していました。
多くのマシンを世にリリースしていった
ここではピエヒさんがポルシェ在籍中に手掛けたレーシングカーとVWのための試作車。そしてアウディに移籍した後、技術担当重役として開発を指揮し直列5気筒エンジンやクワトロ・システムに関連した市販車とラリーカーなど、関わっておられたマシンを少し振り返りましょう。
#33のシルバーの個体は63年式の904。
ノーズをグリーンに塗った個体は67年式の6気筒バージョンである910/6。
4本のテンションロッドで宙づりになっているのは67年式910/6のFRP製ボディ。
#64は69年式の908LH。
#266は69年式の908/02 Spyder。
#40は70年式の908/03 Spyder。
Gulfカラーの#2は70年式の917。
Martiniカラーの#21は71年式の917LH。
ピンクに塗られた#23は71年式の917/20。
薄い紺色に黄色のストライプが映えるSUNOCOカラーは73年式の917/30 Spyder。
67年式910/6は2015年のレトロ・モビルで、70年式の917はスパ-フランコルシャン・サーキット博物館で、その他は総てポルシェ博物館で撮影。
レーシングカーだけでなく、市販乗用車の開発でもピエヒさんの大きな業績が残されています。その代表的なものがVWから委託されたタイプ1、通称“ビートル”の後継として企画された試作車です。
EA266のコードネームを持つこの試作車は、1.6リッター水冷の直列4気筒エンジンをミッドシップ…正確にはリアシートの下に寝かせて搭載し、後輪を駆動するというパッケージが最大の特徴でした。フロントからミッドシップに移動させたことで、フロントノーズ部分をトランクに設えて耐衝突の安全性を確保すると同時に、重量物をホイールベース内に集めたことでハンドリングも素晴らしかった、と言われています。
ただし、VWのトップからはコストが高く、また整備製にも問題があるとして開発中止の決定が下されたようです。この試作車はVWが自社製品を収納展示する博物館をオープンしたのを機に一般公開されていました。
写真はVWがウォルフスブルクにオープンしたもう一つの自動車博物館であり同時に自動車のテーマパークの趣もあるアウトシュタットで2009年9月に撮影したものです。
アウディでも伝説のアウディ・クワトロの技術開発推進
1972年、ピエヒさんはシュツットガルトのポルシェを離れ、インゴルシュタットのアウディに移籍します。74年には技術開発部門のトップとなり、直接開発に関わることはなくなりましたが、自らの経験と哲学で、アウディの技術進化を推し進めることになりました。
特にポルシェ時代から研究を続けてきた直列5気筒エンジンの追求と、全輪駆動=クワトロ・システムの開発には精力を注いできました。79年に登場したアウディ100 5Eはガソリン車として世界初の直列5気筒エンジンを搭載。
80年には全輪駆動システムを採用して登場。
その究極のモデルとして83年にはアウディ・スポーツ-クワトロが誕生しています。
さらにターボ過給や直噴ディーゼルエンジン、アルミニウムを多用した軽量設計(アウディ・スペース・フレーム=ASF)、防錆効果を高めたフルジンク(総亜鉛メッキ)ボディなどを実現。『技術による革新』をスローガンとしてきたアウディのブランドイメージを確立することになりました。
またクワトロは世界ラリー選手権でも技術トレンドを作り上げることになりました。81年からグループ4で本格参戦を始め、全輪駆動の威力を見せつけるとライバルも本格的に4WDマシンを導入するようになりました。
83年のスポーツ-クワトロは、実はグループBのホモロゲーション取得のためのモデルでしたが予定通り200台が販売され、85年にはグループB仕様のスポーツ-クワトロS1がデビューしました。
ただしこの頃にはライバルもミッドシップ+全輪駆動とさらに技術レベルを引き上げており、スポーツ-クワトロS1は苦戦を強いられることになります。
グループA時代幕開けでもクワトロは存在感を示していました。
薄いグリーンの個体は79年式のアウディ100 5E、ベージュの個体は80年に登場したクワトロ、鮮やかなレッドに塗られた個体は83年式のスポーツ-クワトロで、ともにアウディ・フォーラム・インゴルシュタットで撮影。ボディ中央を前後にアウディ・ストライプが走るラリーカーは85年式クワトロS1のグループB仕様。イエローの幅広ストライプがサイドを走るラリーカーは87年式クワトロのグループA仕様。ともにフランスのマノワール自動車博物館で撮影。
その後ピエヒさんは、1988年にアウディの取締役会会長に任命され、その5年後にはVWで取締役会会長に就いています。
さらに2002年から15年までVWの監査役会会長とアウディの監査役会メンバーを兼務していました。
この間は自動車技術者というより自動車工業会の経営者としてクルマに関わってきたピエヒさんですが、自らが切り開いた様々な技術でアウディがル・マン24時間レースで連戦連勝を続けるなど大活躍したのを、どんな思いでご覧になっていたのでしょうか。
冥界に旅立たれた偉大なるクルマ人の、ご冥福をお祈りします。