アウディでも伝説のアウディ・クワトロの技術開発推進
1972年、ピエヒさんはシュツットガルトのポルシェを離れ、インゴルシュタットのアウディに移籍します。74年には技術開発部門のトップとなり、直接開発に関わることはなくなりましたが、自らの経験と哲学で、アウディの技術進化を推し進めることになりました。
特にポルシェ時代から研究を続けてきた直列5気筒エンジンの追求と、全輪駆動=クワトロ・システムの開発には精力を注いできました。79年に登場したアウディ100 5Eはガソリン車として世界初の直列5気筒エンジンを搭載。
80年には全輪駆動システムを採用して登場。
その究極のモデルとして83年にはアウディ・スポーツ-クワトロが誕生しています。
さらにターボ過給や直噴ディーゼルエンジン、アルミニウムを多用した軽量設計(アウディ・スペース・フレーム=ASF)、防錆効果を高めたフルジンク(総亜鉛メッキ)ボディなどを実現。『技術による革新』をスローガンとしてきたアウディのブランドイメージを確立することになりました。
またクワトロは世界ラリー選手権でも技術トレンドを作り上げることになりました。81年からグループ4で本格参戦を始め、全輪駆動の威力を見せつけるとライバルも本格的に4WDマシンを導入するようになりました。
83年のスポーツ-クワトロは、実はグループBのホモロゲーション取得のためのモデルでしたが予定通り200台が販売され、85年にはグループB仕様のスポーツ-クワトロS1がデビューしました。
ただしこの頃にはライバルもミッドシップ+全輪駆動とさらに技術レベルを引き上げており、スポーツ-クワトロS1は苦戦を強いられることになります。
グループA時代幕開けでもクワトロは存在感を示していました。
薄いグリーンの個体は79年式のアウディ100 5E、ベージュの個体は80年に登場したクワトロ、鮮やかなレッドに塗られた個体は83年式のスポーツ-クワトロで、ともにアウディ・フォーラム・インゴルシュタットで撮影。ボディ中央を前後にアウディ・ストライプが走るラリーカーは85年式クワトロS1のグループB仕様。イエローの幅広ストライプがサイドを走るラリーカーは87年式クワトロのグループA仕様。ともにフランスのマノワール自動車博物館で撮影。
その後ピエヒさんは、1988年にアウディの取締役会会長に任命され、その5年後にはVWで取締役会会長に就いています。
さらに2002年から15年までVWの監査役会会長とアウディの監査役会メンバーを兼務していました。
この間は自動車技術者というより自動車工業会の経営者としてクルマに関わってきたピエヒさんですが、自らが切り開いた様々な技術でアウディがル・マン24時間レースで連戦連勝を続けるなど大活躍したのを、どんな思いでご覧になっていたのでしょうか。
冥界に旅立たれた偉大なるクルマ人の、ご冥福をお祈りします。