F1GP人気の次なる波は83年から
1977年、富士スピードウェイにおける2度目のF1GPを限りに、国内にはまたもF1GPが不在の日々が続くことになりましたが、83年にはホンダがF1活動を再開、またも人気が盛り上がって来ました。
第一期の頃とは違い、ホンダもれっきとした大メーカーに発展していて、第二期のF1活動では、先ずはヨーロッパと日本国内でF2活動を開始。その延長上としてF2用の2リッターV6エンジンをベースに1.5リッターV6ターボエンジンを開発。またF2活動で、マーチから独立したスピリットとジョイントし、その発展形としてF1活動を始めることになりました。
83年シーズンをスピリット・ホンダとして戦いながら同年の最終戦ではトップチームの一つだったウィリアムズへのエンジン供給をスタート。翌84年シーズンの第9戦・アメリカGPで復帰後初となる優勝を飾りました。
*赤・白・青のホンダカラーが鮮やかな83年式『#40スピリット201C』と84年式の『#6ウィリアムズFW09』は、ツインリンクもてぎ内にあり、F1の収蔵展示では国内屈指とされるホンダ・コレクション・ホールで撮影。皆さんもご覧になれますよ。
第一次ホンダ黄金期へ、87年王者のネルソン・ピケ
1984年からウィリアムズへのエンジン供給を始めたホンダでしたが、1.5リッターV6ターボエンジンのパフォーマンスは素晴らしく、86-87年には2年連続でウィリアムズがコンストラクタータイトルを獲得するとともに、87年にはロータスへの供給も開始。ネルソン・ピケがドライバーズチャンピオンにも輝いています。
*鮮やかなCAMELカラーの87年式#11ロータス99Tはホンダ・コレクションホールで撮影。
さらにカーボンファイバー(CFRP)モノコックなど最新技術を持っているマクラーレンとのジョイントを画策。88年からはウィリアムズに代わってマクラーレンにエンジン供給することになったのです。
そんな88年シーズンではマクラーレンとホンダのパッケージが素晴らしいパフォーマンスを発揮。全16戦中15勝を挙げてライバルを圧倒しました。結果、89年からはターボの使用は禁止となり、3.5リッター以下のNAエンジンに限られることになったのです。
しかしホンダはその後もマクラーレンと、他も羨む蜜月関係を築きあげながら、91年まで4年連続でドライバー&コンストラクターのダブルタイトルを獲得。92年まで都合5年間で44勝を積み上げることになりました。
*写真奥から後継モデルの91年式マクラーレン4/6、89年式マクラーレン4/5、と勢ぞろいした88年式マクラーレン4/4。
一方、90年にマクラーレンに供給していたV10エンジンを、91年にはティレルにも提供。マクラーレンに新たに供給を始めたV12と2種のエンジン開発を続けるタフなシーズンとなりました。
*EPSONとPIAAのロゴが映える91年式の#3ティレル020は鈴鹿のモータースポーツファン感謝デーで撮影。
日本国内におけるF1にまつわる歴史は50年以上。ゆえに黎明期を振り返るだけでもあっという間です。次回はF1ブーム第2の波をお届けしたいと思います。