バブル景気でジャパンマネー大量流入
ホンダが供給した1.5リッターV6ターボエンジンを武器に、ウィリアムズやマクラーレンなどがチャンピオンを連破していた1980年代。日本国内では空前のF1ブームが巻き起こっていました。そのきっかけは87年。鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催されるようになり、日本人ドライバーとして中嶋悟選手がフル参戦を果たすと同時に、全戦がテレビ放映されていきます。いわゆる3点セットによって、F1人気が急上昇した、という経緯がありました。
それをさらに後押ししたのがバブル景気でした。80年代から90年代にかけて、F1GPにはジャパンマネーが大量に流入。スポンサーとしてF1チームの活動を支えるだけでなく、レイトンハウス(マーチ)やフットワーク(アロウズ)などのように、チームそのものを買収するケースも複数件起こっていました。中嶋悟選手に続いて鈴木亜久里選手や片山右京選手もフル参戦を果たすなど、多くの日本人ドライバーもF1GPへと登場してきました。
日本メーカーによるエンジン供給ラッシュ
92年シーズンを限りにホンダはF1活動を休止しますが、これを受けて無限(現・M-TEC)がホンダエンジンをベースにチューニングを施したユニットの供給&サーキットサービスを開始します。その後はオリジナル・エンジンを開発しホンダがカムバックを果たすまで活動を続けています。
他にもヤマハが89年から97年にかけてエンジン・コンストラクターとして参戦。アロウズに、3リッターV10自然吸気のOX11Aを供給していた97年のハンガリーGPではデイモン・ヒルがラスト1周までトップを走り快走を見せたが2位に留まり、そのシーズンを限りに9年間(90年は実戦参加を休止しており事実上は8シーズン)の活動を終えています。赤青白に塗り分けられた92年式のジョーダン192・ヤマハは袋井市にあるヤマハのコミュニケーションプラザで撮影しました。
88年にはSUBARUがイタリアのエンジン・コンストラクターであるモトーリ・モデルニとジョイントして“1235”の開発コードを持つ水平対向12気筒の自然吸気3.5リットルエンジンを開発。やはりイタリアに本拠を構えるコローニのマシンに搭載して90年シーズンのF1GPに参戦しました。
ただし、サイズが大きすぎたことと重量が重すぎたことが致命的で、第8戦のイギリスGPを限りに参戦を休止……。コローニ自体はV8のコスワースDFRにエンジンを換装して参戦継続していますが、8戦すべてで予備予選落ち、と惨憺たる結果でした。
また、実戦に参加することはありませんでしたが、90年代には2つの国産F1(仕様の)エンジンが誕生していました。一つはチューニングパーツメーカーとして有名なHKSで、1990年の1月にプロジェクトがスタート。V12で1気筒あたり5バルブという基本コンセプトが決定し、製作がすすめられました。
91年の6月に完成し300Eと命名されたF1スペックのレーシングエンジンは、ベンチテストが続けられ、翌92年の東京オートサロンで発表。同年の12月にはF3000用のローラを改造したシャシーに搭載し、富士スピードウェイで実車テストも行っています。
もう一つは自動車メーカー……、現在はトラックや大型バス専業メーカーとなっていますが、当時は小型乗用車も生産していたいすゞです。
ディーゼル・エンジンに関する技術に評価の高かった同社で、ガソリン・エンジンにも高い技術があることをアピールする目的で開発されたのがV12エンジンのP799WEでした。当初はエンジンの試作、で終わる予定でしたが実機が完成してベンチテストをしたところ、予想以上のパフォーマンスを見せたために、それならば、と実車テストを行うことになりました。
ロータスとジョイントし102Bを改造した102Cが製作され、ロータスのテストコースでシェイクダウンテストを行った後、シルバーストンでテストされています。
92年には新たなチームとしてチーム・トレブロンが名乗りを上げています。ただし発表会が行われ、スケールモデルの写真が入ったテレホンカードが配布されましたが、実車がつくられるには至らず、また正確な情報も発信されないままチームは立ち消えとなってしまいました。
*いすゞのP799WEは静岡市にあるタミヤ本社で撮影。HKS 300EはHKS広報部提供。チーム・トレブロンのスケールモデルは、発表会で配布されたテレホンカードから。