世界の頂点を目指した国産バイクたち
1960年代に生産された国産バイクは、高性能化や海外レースでの活躍などで、国内はもとより世界中で絶大な人気を獲得。一躍、日本メーカーの名を世界に轟かすことになりました。特に、500cc以上の大排気量エンジンを搭載し、パワーで世界の頂点を目指した大型バイクたちの中には、1960〜70年代に爆発的に売れ、ニックネームで呼ばれるようになったモデルが数多くあります。ここでは、それらの中でも、特に人気が高かった名車たちを紹介します。
【ダブワン】カワサキ・650-W1(1966年)
カワサキが1963年に吸収した目黒製作所(メグロ)のKシリーズをベースに発展させて1966年に誕生したモデルが「ダブワン」こと650-W1です。車名のW1からダブワンというニックネームで呼ばれています。
エンジンは空冷4ストロークOHVのバーチカルツイン。前身となるカワサキメグロ・K2は497ccでしたが、主に対米輸出戦略のため624ccに排気量アップ。これが米国だけでなく日本国内でも大いにウケました。
というのも、当時としてはこのマシンが日本国内での最大排気量。しかもカタログによれば、最高出力は47psを4500rpmで発生。0-400mを13.8秒で駆け抜け、最高速度は180km/hをマークと、「速さ」で隆盛を誇っていたイギリス製オートバイに対し一矢報いる性能を発揮していたのでした。
写真の車両は人気のあるキャブトンマフラーを採用し、キャブレター(燃料噴射装置)がシングルからツインへ変更された2代目のW1Sです。
パワーも振動も強烈な並列2気筒
ダブワンのメカニズムで、特徴的な箇所をいくつか紹介しましょう。エンジンは、カタログで最高速180km/hを謳っていた並列2気筒を搭載。ただし、振動の面では「キョーレツ」のひと言で、ボルトをしっかり増し締めしないと走行中に緩んで部品が脱落するトラブルも多発したそうです。
でも、根強いファンたちに「この振動がないと“W”とは言えない」と言わせるまでの魅力があるのもまた事実です。
シフトペダルは右側だった!
ちなみに、W1はマイナーチェンジしたW1Sまでは、現在のようにシフトペダルが左側にあるのではなく、右側にあるのが大きな特徴。
これは前身となるメグロKが、イギリスのBSA(オートバイ)のマシンを参考に作られたときの名残です。ダブワンは1971年に登場したW1SAで、ようやく一般的な左シフトを手にすることになりました。
前後ブレーキはドラム式でした。当時、絶大なパワーに対して制動機能は非力で、「止まらない」と言われていました。そのためか、このあと1973年にモデルチェンジした「ダブサン」こと650-RS(W3)では、フロントにダブルディスクブレーキを採用して性能の向上を図っていきました。
【マッハ】カワサキ・500SSマッハIII(H1)(1969年)
その車名から「マッハ」の愛称で親しまれた500SSマッハIIIは、4ストロークツイン(2気筒)エンジンが主流だった当時の高性能車市場に、2ストローク・トリプル(3気筒)で切り込んだカワサキの意欲作でした。
それまでの北米市場の分析結果から「世界最速」が戦略の要と判断したカワサキは、最高出力60ps(当時)世界最速198km/hのモンスターを作り上げたのです。
強烈な加速力を発揮し、アクセルをラフに開けるとフロントタイヤがポンポン浮いてしまうそのキャラクターは、“ジャジャ馬”と称されるほどクセが強いものでした。ですが、逆にこれを乗りこなすことができるライダーは周囲から一目も二目も置かれることから、人気に火が点くことになったのでした。
写真の車両は1972年モデルのH1D型で、その頃にはカワサキ世界最速車の座をZ1型900スーパー4(903cc・4ストローク4気筒エンジン搭載)に譲り渡したことで、マッハはフレームやエンジンに手を加えて性格もややマイルドな方向に変更されていました。それでも元来のジャジャ馬ぶりを消されることなく「カワサキ=硬派」なイメージを大きく定着させたのは、ズバリこのバイクかもしれません。
伝説を生んだ2ストローク3気筒エンジン
音速のような速さを持つという“マッハ伝説”を生み出したエンジンは、空冷2ストローク・ピストンバルブ並列3気筒。初期型では当時破格の最高出力60psを7500rpmで発揮しました。
開発当初は、2気筒案もありましたが最終的にパワーに優れる3気筒が採用されることに。この方がピストンストロークを短くすることができ高回転化に適していたのが理由のひとつです。
マフラーは、マッハの魅力のひとつとなっている右2本&左1本の3本出し。当時はまだ排ガス規制も緩かったので、ここから吐き出される2ストロークオイルの白煙もすさまじいものでした。もちろん音量規制についても同様。割れるようなカミナリ・サウンドを思う存分ストリートに響かせていたのです。
ウィドウ(未亡人)メーカーという異名も
ブレーキは初期型がドラム式で、圧倒的な速さに対してあまりにも制動力は非力でした。そのため米国では「ウィドウメーカー(未亡人作成機)」と、あまり喜べない異名も手にしたほどです。1972年H1D型は、この弱点を補ったかたちでフロントブレーキがシングルディスクに改められています。マッハは500cc版に続いて、750ccの750SSマッハIVや400ccの400SSマッハII、250の250SSマッハIなども登場しましたが、やはり「マッハ」と言えば当時も今も500が一番人気となっています。
【ケ−ゼロ】ホンダ・ドリームCB750FOUR(1969年)
「最速」&「大排気量」が、世界戦略上で欠かせないと判断していたのはカワサキだけではありませんでした。60年代に世界最高峰の2輪レースWGP(現Moto GP)で活躍していたホンダも、市販輸出車のドリームCB450では販売面で苦境に陥っていました。そこで開発されたのが、量産車では初となる並列4気筒を搭載したドリームCB750FOURだったのです。
とは言え、当初はそんなに売れるとホンダでも思っていなかったようで生産予定数も控えめでした。ホンダ創業者の本田宗一郎氏が開発中の車両を見て「こんなデカいオートバイに、いったい誰が乗るんだ?」と語ったというのも有名な逸話です。
しかし、発売したら、これが爆発的な大ヒット! 750ccという大排気量がもたらす堂々とした王者の風格、それに恥じない最高速200km/hを達成する動力性能で、日本国内でも「ナナハン」ブームの一大旋風を巻き起こしたのでした。愛称の「ケーゼロ」は、この初期型であるK0型に与えられたものです。
砂型鋳造エンジンはかなりレア
既に海外ではイタリアのMVアグスタなどが並列4気筒のオートバイを市販していましたが、いずれもスペシャルなバイクで、真の意味で「量産車初の並列4気筒」と呼べるのがドリームCB750FOURでした。
しかし、前述の通り、当時のホンダはそんなに売れるとは予想していませんでした。そのため、K0型の最初期型はクランクケースが量産にあまり向いていない砂型鋳造で、年度途中から量産しやすいダイキャスト金型に改められました。
現在、この砂型の最初期型は旧車市場でかなりのプレミア価格で取引されています。排気量は736cc、最高出力は67ps/8000rpmを発揮していました。
独特のサウンドを奏でる4本出しマフラー
マフラーは4気筒であることを全面に主張する4本出し。エキゾーストパイプは途中で連結することなく独立しているので、気筒毎の脈動を感じさせるバラけたサウンドは今にない独特の味わいを持っています。
ドリームCB750FOURは「750cc&4気筒」を武器に、トライアンフなど650ccツインを主力とするイギリス製オートバイが席巻していた市場を、日本のオートバイが一気に奪い取っていく契機となったのでした。
「並列4気筒」に加え、CB750FOURが誇る「量産車世界初」要素はもうひとつあります。それがフロントにおごられた油圧式ディスクブレーキ。φ296mmステンレスディスクに片押し1ポットのキャリパーを採用し、それまでのドラムブレーキに対して大きな制動力と安心感をもたらしてくれたのでした。
こうした部分も高性能の証として世界に受け入れられていく理由のひとつとなったのです。K0型から始まったドリームCB750FOURは国内では1976年のK7型、輸出用は1977年のK8型まで生産が続きました。
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車両撮影協力:ウエマツ https://www.uematsu.co.jp/