万人が利用できないと自動運転は意味がない
人の代わりに機械がクルマを走らせる、いわゆる「完全自動運転」が実現すれば、どんな個人でも車両で自由に移動することが可能になる。それは、障がい者や高齢者などでも同じ。では、そうなると「福祉車両」はどんな存在意義を持つのか? 筆者は、自操式福祉車両という概念自体が「不要になる」と考える。以下に、その理由を述べよう。
完全自動運転はレベル4以上から
まず、前提としてクルマの「自動運転」の概念を簡単に説明しよう。
自動運転と運転支援の境は、レベル3からレベル4の間にある。現在の運転支援はいずれもレベル2であり、これは、運転者が運用の全責任を負う。レベル3は、自動運転と同等の機能が搭載されるが、自動運転操作が難しい状況、例えば天候の不順などで安全な自動走行ができない場合は、運転者に運転が任される。
何か特別な事態が生じたり、路面など走行状況が悪化しなければクルマに任せて走行できるのだが、突然運転を戻されたとき、果たして運転者がその状況を即座に判断し、適切な運転を行えるかどうか分からないため、現実的にレベル3での市販はないとするのが昨今の趨勢(すうせい)である。
そのうえで、ある道路条件などを満たした場所では、万一の事故など含めすべてがクルマ側の責任とされるのが、レベル4だ。その上にレベル5があり、こちらは条件を特定せずあらゆる道を自動運転で走行できる水準であることを指す。
2025年には実現する?
自動運転の区分の解説が長くなったが、その自動運転がいつ実現するのかについては、イスラエルのセンサーとソフトウェアのメーカーであるモービルアイ社が、2025年には個人での自動運転を実現したいとの目標を掲げている。
わずかあと5〜6年先のことだ。もちろん、それを実現するには技術開発のみならず、法整備なども行われなければならない。なぜなら、交通に関する既存の法律は、人が運転することを前提としているからだ。
また、故障や事故などに対し、誰が責任を負うかという製造者責任の課題もある。スウェーデンのボルボは唯一、自動運転車両で起きた事故等はすべて自動車メーカーの責任であると表明しているが、この点についてもまだ様々な議論が続いている状況だ。
運転免許自体が不要になる?!
以上を踏まえた上で、もし(レベル4以上の)完全な自動運転が実現すると、福祉車両の価値はどうなるのか。
福祉車両を必要とする人にとっての利便性がより高まると期待するが、その時代になったとき、そもそも通常のクルマと福祉車両を区別すること自体、違和感を覚えるようになるのではないかと考える。
なぜなら、完全自動運転が実現し、その運用がはじまれば、運転免許という制度自体が意味を失うからだ。障がい者や高齢者などを含め、全ての個人がクルマを利用できるようになれば、運転免許証を所持するかどうかは問題ではなくなる。また、そうでなければ自動運転にする意味がない。
運転免許が不要になるなら、現在運転免許を取得するための条件である視力や、身体的な操作能力、状況判断能力が問われないことになり、鉄道やバスなどの公共交通機関と別に、万人のための個人で使う移動手段が生まれることになる。
万人が使えるユニバーサルデザインが必要
そうなれば、「誰もが使えるクルマ」であることが必須となる。「健常者が運転する」という、今までのクルマの基本的な前提条件が変わるのだ。
おのずと外観や室内の造形および機能、あるいは乗降性などであらゆる人を対象としていなければならないことになる。障がい者や高齢者、男性や女性、大人も子供も、全ての人にとって快適に利用できるクルマが求められるのだ。
そして、それは1985年に米国で提唱された、まさに「ユニバーサルデザイン」である(人種や性別、障がいなどの有無に関わらず、万人が利用できる製品や情報、建築などの汎用設計のこと)。
そのときには、もはや福祉車両という言葉が死語となることが期待される。障害を持つ人も高齢者も、日本人も外国人もすべての人が不自由なく使えるクルマが自動運転によって実現すると考えてはどうだろう。
そうすれば、将来の福祉車両のあるべき姿、ユニバーサルであるための姿が見えてくる。そこへ向かって、自動車メーカーはあらゆる新車開発に取り組んでもらいたいものである。