時代の荒波と日産マシンの変遷に注目
富士スピードウェイで「NISMO FESTIVAL at FUJI SPEEDWAY 2019」が12月8日に行われました。今年で22回目を迎えた同フェスティバルは、SUPER GTやスーパー耐久シリーズなどで活躍する日産の、現役競技車両が集合するだけでなく、いにしえのマシンが顔を見せることでも人気となっています。
今回注目したのは、ル・マン24時間に参戦した競技車両。なかでも80年代後半から10年余りの期間に参戦した日産車は格別でした。この間にル・マン24時間の車両規定はグループCからGT1、LMP(ル・マン・プロトタイプ)へと大きく変遷。それに応じて日産の主戦マシンも変わっていきました。イベントには、その大きな波を経てきたグループCからGT1、LMPマシンが顔を揃えていたのです!多くのドラマが鮮やかに蘇ってきました。
耐久レースの怪物車「グループC」最終時代へ
1989年 日産R89C
ル・マン24時間だけでなく国内でもグループCカーによる耐久レースが盛んになっていった80年代の半ばから、レーシングカーとしての車体ベースである英国・マーチ社製の市販シャシーに、自前のエンジンを搭載してポテンシャルを引き上げていた日産ですが、89年からは英国・ローラ社と共同でオリジナルマシンを開発することになりました。
その初のマシンがR89Cでした。エンジンも、同社のグループCプロジェクトでは最強となる公称800馬力の3.5リッターV8のVRH35型を投入し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に加えル・マンには日・欧・米から計3台での遠征となりました。写真は89年WSPC第2戦ディジョンのもの。
89年のル・マンでは、予選19番手と、3台の中でも最も下位に沈んでいた日本チーム(NISMO)ですが、スタートから速いペースで周回し着実にポジションを挙げて行きました。土曜日の日没が近づく頃までには4位にまで進出、更なるポジションアップも期待されましたが、残念ながら深夜になったところでオーバーヒートからリタイアとなってしまいました。
さらに欧・米の各チームもリタイアに終わり、日産にとっては悔しい戦いとなりましたが、リベンジの期待が高まった翌90年のル・マン24時間では新型のR90CPなど5台が参戦しヨーロッパ・チームがポール獲得。決勝でも日本チームの星野一義/長谷見昌弘/鈴木利男組が5位入賞を果たしています。
市販車ベースでル・マンに臨んだGT-R
1995年 日産NISMO GT-R LM
80年代序盤からグループCで戦われてきたル・マン24時間ですが、90年代に入ってグループCが事実上消滅したことでGTカテゴリーが新たな主役となりました。GTというと市販車ベースと考えがちですが、94年の場合は1台でも登録されたロードカーがあれば範疇に入るという大まか過ぎる車両規定でした。グループC王者だったポルシェ962Cに保安部品をつけてナンバー登録すれば市販車。事実上のグループCカーまでが参戦する始末でした。
規則解釈はさておき、日産はR33型スカイラインGTをベースにしたレーシングカーとロードゴーイングモデルを開発しました。それが95年と96年にル・マン24時間に参戦した日産NISMO GT-R LMです。
95年には2台が参戦し、本命車両としてグループA仕様のエンジンを搭載した23号車はリタイアしたものの、N1仕様を搭載した22号車が総合10位入賞を果たしています。ただポテンシャル的にはそれが精一杯で、97年に向けては、より強力なレーシングマシン「R390」が開発されることになりました。
今回のNISMO ESTIVALでは95年に10位入賞を果たした22号車が、ル・マン参戦車の中では唯一、コースを走る元気な姿を見せていました。