島国から厳しいラリーの世界へ先陣を切る
日本における近代モータースポーツの始まりは、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催された1963年というのが通り相場となっています。一方ラリーに関しては、鈴鹿サーキットが建設される以前には、海外イベントに参加したケースがあり、国際化はレースよりも先んじていました。今回は、そんな黎明期に海外に挑み、活躍の場を開拓していった国産ラリーカー6台を紹介することにしましょう。
豪州一周トライアルに招待、総合47位で完走
【1957年 トヨペット・クラウン(RS)】
ル・マン24時間レースを連覇し、世界耐久選手権(WEC)では多くのタイトルを獲得。国内のSUPER GTでも数多く王座に就いているトヨタは、世界ラリー選手権(WRC)でも世界を代表するトップランカーとして活躍を続けています。
そのモータースポーツの国際的な第一歩はラリー。初挑戦は海外のラリーに招待されての出場となり、初参戦ながら47位で完走、遠来賞(外国賞)も獲得しました。
「The Round Australia Trial(オーストラリア周回トライアル)」として1953年にはじまったイベントは、57年にはモービルガス・トライアルとして開催。参加したのは55年に発売されたばかりのトヨペット・クラウン(RS)だったのです。
道路整備も途上とあって “道なき道”を、19日間で1万7000km走り抜くという過酷なもの。サポート部隊はなくスペアパーツや工具、食糧などを満載したマシンの総重量は1.7トンにもなったそうで、僅か48馬力のエンジンには文字通り荷が重い条件でしたが、初出場のクラウンは粘り強く走行を続け、見事に完走を果たしたのです。
想定外のクラス優勝は本格参戦のきっかけに
【1958年 ダットサン1000(210)】
1957年にクラウンが第一歩を示したモービルガス・トライアルに、翌58年には日産(ダットサン)がチャレンジ。前年にマイナーチェンジを受けて登場した210系のダットサン1000を2台、それぞれ”富士号”と”桜号”と愛称をつけ、チーム監督兼任となった、後のNISMO初代社長に付かれる難波靖治さんら4人の社内ドライバーに託しての参戦となりました。
前年のクラウンもそうでしたが、当時の国産車の技術レベルはまだまだ低く、最大の参戦テーマは実戦テストとライバルたる外国車の調査にあったようで、難波さんは後に「リタイアしたクルマがいたらそのリタイアした理由を探ってこいと言われました」と告白していました。
ところが、予想に反して2台のダットサンは健闘。富士号が総合34位で1000cc以下のクラスを制覇、もう1台の桜号もクラス4位となりました。そしてこれ以降、日産は「開発に役立つラリーに力を入れて行く(難波さん)」ことになったのです。