異なるアプローチで挑んだル・マンで激闘を展開
2020年早々、国内でも公開された映画『フォード vs フェラーリ』に関心が高まっています。映画では、60年代中盤の国際マニュファクチャラーズ選手権、なかでもひのき舞台とされるフランスで開催されるル・マン24時間レースにおいて激闘を繰り広げたフォードとフェラーリの物語をメインテーマにしています。名チューナーであるキャロル・シェルビーと、テストドライバーのケン・マイルズの2人を主人公に、彼らを取り巻く関係者の人間ドラマがフューチャーされています。
ここではもうひとつの主役であるクルマに注目。王者たるフェラーリに挑んだチャレンジャー・フォードのドラマを振り返ることにしましょう。フォードとフェラーリの生い立ちと、フォードがル・マン24時間レースを念頭にビッグレースに挑むことを決断した経緯。そのことがフェラーリとどう関係してくるのか、といった辺りを紹介します。
レースをするためにクルマを売るフェラーリ
自動車メーカーと一括りにされる両社です。しかし、1908年に登場したT型で自動車の大衆化を果たしたフォードは、やがては廉価で大衆向けのコンパクトカーからフラッグシップサルーンまでをラインナップする総合メーカーへと発展、世界に冠たるトップメーカーとなりました。1908年式のT型はパリの工芸技術博物館で撮影。
これに対して、フェラーリは戦後創設された新進のスポーツカー専業メーカー。フェラーリが最初にリリースしたモデルもレーシング・スポーツの125Sでした。写真の125Sは同社の企業博物館であるガレリア・フェラーリで撮影したものです。
一方で戦前からアルファ・ロメオのワークスチームを運営するレースのスペシャリストとして発展してきた前史をもつフェラーリは、戦後の1947年に設立された後、戦時中の中断を経て1949年に再開されたル・マン24時間レースに初出場すると、いきなり優勝しました。そのマシン、166バルケッタは、ル・マンのサーキット博物館で撮影したもの。
さらに1950年から始まったF1GPにも初年度から参戦を続けてきたフェラーリは、戦前から猛威を振るっていました。そして自らもその活躍の一翼を担ってきたアルファ・ロメオに勝負を挑みます。翌51年のイギリスGPでその“本家”にあたるアルファ・ロメオを制して初優勝。エンツォ・フェラーリが「私は母親を殺してしまった」と複雑な心境を吐露したエピソードはとても有名なF1界の逸話です。
F2規格で戦われた翌52年には、インディを除くシリーズ7戦で負けなしの7連勝を飾り見事戴冠。この時の車両がフェラーリ500です。歴代F1マシンを数多く展示するフェラーリの企業博物館、ガレリア・フェラーリで撮影。
このようにレースにおけるフェラーリの評価は高く、50年代からは王座に君臨。50年代最強のレーシングスポーツと謳われたテスタロッサもあります。シミオン基金自動車博物館で撮影したテスタロッサの個体(58年式250TR)は、58年のル・マンで通算3勝目を挙げたマシンと同型車です。
F1GPをはじめとするモータスポーツに参戦を続けてきたフェラーリ。参戦費用は高騰を続け、それを稼ぐためにクルマを生産していると揶揄されていたほどでした。
クルマを売るためにレースをするフォード
一方、大メーカーとなったフォード。創業者のヘンリー・フォード自身は「クルマの性能を実証し、会社のイメージアップを図るためにレース結果は有効」との見解を持っていて、フォードを創業する以前にスピードトライアル(速度記録挑戦)などで活躍していました。
古くはスウィープステークスと名付けられた1901年式のオーバルトラック用レーシングカーがあり、ヘンリー・フォードがデトロイト自動車会社を解散後、最初に製作したレーシングカーです。
またフォード・モーター・カンパニーを設立する直前の1902年に、ニューヨーク・セントラル鉄道の機関車に因んで『999』と命名されたオーバルトラック用製作したレーシングカーなど、いずれも好成績が記録されている。ともにヘンリー・フォード博物館で撮影。
フォードT型で会社の基礎を創った後、大戦後にもまずはカスタムとカスタム・デラックスというフルサイズではあったものの真っ当な4ドアセダンをリリースしていました。初の戦後モデルとなった49年式カスタムはトヨタ博物館で撮影。
そんなフォードがモータースポーツ、特にレースに力を入れるようになったのは60年代に入ってからでした。のちにポニーカーとして大ヒット商品となるマスタングを市場投入するタイミングで、レースでの好成績をイメージアップに繋げようとしたのでした。マスタングのプロトタイプはヘンリー・フォード博物館で撮影。
そして手っ取り早い方策として、当時、ル・マン24時間レースで連勝を続けていたフェラーリに注目。フェラーリと提携する方向性、事実上は吸収合併の交渉を進めることになったのです。フェラーリは、F1GP参戦を続けるためにスポーツカーを売っていたのに対し、フォードはクルマを売るためにレースを再開することになったのです。
プライドと意地がぶつかり合って交渉決裂
フォードとフェラーリの提携交渉が始まったのは1963年のことでした。話し合いは順調に進み、ついにイタリアはマラネロにあるフェラーリの本社にヘンリー・フォードを招いて契約調印の運びとなりました。しかし、最後の最後でエンツォ・フェラーリが買収交渉を一方的に打ち切ることになってしまったのです。
この年1963年にル・マンを制したのが、250P。こちらはシミオン基金自動車博物館で撮影したもの。
決裂には複数の理由があったと伝えられていますが、レースのスペシャリストであり王座に君臨していたフェラーリと、GMとともに世界的なビッグメーカーとなっていたフォード、それぞれのプライドと意地がぶつかり合った(すれ違った?)結果に他なりません。そして結局、フォードは自前でレースカーを用意、フェラーリに対し王座奪回をかけた勝負に出ることになりました。
フォードが採った方法は、とてもスマートで、イギリスにレース専門会社であるフォード・アドバンスド・ビークルズを立ち上げるとともに、以前からエンジン供給していたローラ・カーズと提携。ル・マン24時間を始めとする国際マニュファクチャラーズ選手権を戦うレーシングスポーツカー、フォードGT40を開発したのです。
フォードGT40は64年式のプロトタイプで2016年のフェスティバルofスピードで撮影。
名車の繰り広げてきたドラマ、忘れてはならないものもたくさんあります。