メルセデス・ベンツ「AMG」の歴史
メルセデス・ベンツの公式チューニングメーカーとして、日本でもすっかり定着した「AMG(エー・エム・ジー)」。国内で販売されているメルセデス・ベンツの各クラスにはAMGのモデルが設定され、街中を走るクルマからもAMGのロゴを目にすることがあると思う。とは言え、その生い立ちやメルセデス・ベンツとの関係性について知らない人も多いのではないだろうか。今回はAMGの創業時にスポットを当て紹介したい。
ちなみに日本では90年代頃、AMGを「アー・マー・ゲー」と呼ばれることがあったが、正式なドイツ語読みでは、「アー・エム・ゲー」、英語読みでは「エイ・エム・ジー」である。なぜ日本では「アー・マー・ゲー」と呼ばれていたのか、筆者として理解に苦しむところである。
はじまりはダイムラー・ベンツ社員2人の熱意
1964年、ダイムラー・ベンツ社のエンジン・テスト部門で働いていたハンス・ヴェルナー・アウフレヒトは1人の新入社員エルハルト・メルヒャーと知り合う。メルヒャーは機械加工部門に入ったばかりだった。その年、ダイムラー・ベンツ社はそれまで続けてきた300SEによるツーリングカーレース選手権への参戦を取りやめる決定をしていた。理由は300SEが既にレースを戦う為の性能を有していないと判断したからだ。
これに対しアウフレヒトとメルヒャーは強い抵抗を覚え、「メルセデス・ベンツがやらないのなら自分達の手で300SEを戦闘能力のあるクルマに仕立て上げよう」と、仕事が終わった後、エンジンのチューニング作業に取り組む。
この2人の考えに賛同したのが、当時のダイムラー・ベンツ社のスポーツ部門のメンバーだったマンフレッド・シークであった。彼はダイムラー・ベンツ社から不要になった300SEのワークス・レースカーを購入して、アウフレヒトとメルヒャーのところに持ち込んだ。2人は300SEのエンジンに手を加え、新しいカムシャフトと軽量化されたバルブを組み込み、燃料供給も直噴方式を採用した。
そしてこの300SEはマンフレッド・シークのドライブにより、1965年のドイツ・ツーリングカー選手権に参戦。10戦中ポールポジション10回、ラップレコード10回、優勝10回という圧倒的な強さを見せつけた。
兄が加わり3人でAMG社を設立
1966年には、多くのプライベーター達がアウフレヒトとメルヒャーのところにレース用のエンジンを持ち込んだのは言うまでもない。そして1967年、2人はいよいよ本格的に独立して事業をはじめる事にした。地方紙の広告で見つけたブルグシュタールにあるアルテ・ミューレと呼ばれる古い製粉所を本拠地に、アウフレヒトの兄・フリードリッヒを加えて3人でAMG社を興した。
このAMGの社名については、アウフレヒトの「A」、エルハルト・メルヒャーの「M」、アウフレヒトの生まれ故郷であるグローサスパッハ「G」の、それぞれ頭文字を取ったものである。
ちなみにAMGロゴの左にある5本の斜線/////はタイア痕を意味。エンブレムの輪郭の月桂樹はメルセデス・ベンツと共にレースの覇者を、左側の水とりんごの木はアッファルターバッハの町を、右側のカムとバルブはエンジンチューニングを表している。日本では、このエンブレムのステッカーは当初のカラーから、現在では下地のシルバーに黒文字で統一されリアウインドウ左下に貼付されている。
AMG 300SEL 6.8ℓがデビュー
AMGにとって、チームワークこそが成功をもたらした企業哲学であった。それは1971年のベルギー、スパ・フランコルシャンで開催される24時間レースまで、あと2週間という日の出来事だった。ホッケンハイムで行われた練習走行で、AMG 300SEL 6.8(ベースエンジン6.3L)に乗って走行していたはずのヘルムート・ケルナースがコース上で事故を起こし、マシンは大事なレースまで後2週間という時に「鉄クズ」同然となった。
アウトレヒト兄弟とメルヒャーはその打開策を深夜まで話し合ったが、そのアイデアさえ浮かばなかった。しかし、その瞬間「さあやろう、我々なら必ずできる!」という声が響き渡った。この時にAMG社の哲学「我々なら必ずできる!」が生まれたのは言うまでもない。夜明け前にマシンの残骸を解体した3人は、昼夜の区別なく自分達の哲学を守る為に作業を続けて完成させた。
鉄クズがAMGとして甦り、新たに無名だったハンス・ヘイヤーとクレメンス・シッケンタンツをドライバーとして契約し、スパ・フランコルシャンに向けて出発。1971年、ヘイヤーとシッケンタンツがAMG 300SEL 6.8Lでクラス優勝し、総合でも2位に輝いた。このレースでメルセデス・ベンツの名が再びモータースポーツの世界に蘇ったとして語り継がれているが、当然それはAMG社の力によって成し遂げられたものだった。
4ドアサルーン初の時速300km超え
1984年にメルヒャーが、各シリンダーが完全に独立した4つのバルブを持つシリンダーヘッドを開発。このイノベーションによりAMGはハイパーフォーマンス・エンジンメーカーとなった。1986年にはAMG 300E 5.6が登場。新開発の4バルブ・シリンダーヘッドを持つ360psのV8エンジンを搭載し、4ドアサルーンとして史上初めて300km/hの壁を超えた。
当時のもっとも有名なモデルは、1987年に発表した300CE 6.0 4V The Hammer(ハンマー)である。メルセデス・ベンツV8エンジンにDOHC 4バルブを組み合わせたパワーユニットは、ハンマーのニックネームで世界的な名声を得、現在もAMG神話の象徴モデルだ。つまり、金槌で後ろから殴られたようなトルクを発揮するという意味をもつ。
ダイムラー・ベンツ社との提携
1980年後半、AMGは日本でも三菱のギャランやデボネアのチューニングを担当した事は有名である。そして1988年、ダイムラー・ベンツ社とAMG社は提携し、パートナーとなってモータースポーツに参加することになった。まずDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)、続いてITC(国際ツーリングカー選手権)、そしてFIA・GTシリーズにも参戦。
AMG社は1992年、1995年とダイムラー・ベンツ社にツーリングカー選手権チャンピオンの座をもたらし、自らの任務を果たしただけでなく、パートナーの信頼を揺るぎないものとした。DTMでは1986年参戦以来160のレースで勝利し、いまなおAMGの3文字はメルセデス・ベンツの最高のレーシングパーフォーマンスを象徴している。特に1980年代末~1990年代初めにかけ、DTMで50勝をあげた190E2.5-16は伝説的存在となっている。
AMGカタログモデルの実現へ
その当時のAMG社は、もうひとつ画期的にマニアックな挑戦をはじめていた。一般のオーナーの量産モデルをレーシングカースタイルに仕立て、公道で走らせてしまうという大胆な計画だ。ヨーロッパでは、すでにスポーティセダンがレース活動をし、しかもメルセデス・ベンツマニアも公道仕様を買い求めていた。これを「高貴なレーサー」と題して、ドイツの専門誌が高らかに報じた。こうした創立時からのAMG社の熱意が、のちに世界中のメルセデス・ベンツオーナーが憧れる「メルセデスAMG」を実現させたのである。