トヨタの方針だった国産技術で構築
トヨタの最上級車種であるクラウンが誕生したのは、いまから65年前の1955年(昭和30年)である。ちなみに現行のクラウンは15代目にあたる。
初代クラウンは、正式名を「トヨペット・クラウン」といった。かつてトヨタは「トヨタ自動車工業(トヨタ自工)」と「トヨタ自動車販売(トヨタ自販)」の体制にあり、それが合併して現在の「トヨタ自動車」となっている。トヨタ自販の直営店として創設されたのが53年のトヨペットで、その販売車種として初代をトヨペット・クラウンといった。
トヨタの販売店には、先に東京トヨタという系列があったが、こちらは銀行や生命保険会社、鉄道会社などが出資した店で、クルマ販売の専門家がおらずトヨタ車の売れ行きは他社に比べ不振だった。第二次世界大戦後に米軍の占領下にあった日本が、1949年にようやくクルマの自由販売が許可されたことで、トヨタ自販直営のトヨペット店を展開することにより販売力のテコ入れを行ったのである。
アメ車を手本に構想を練っていった
トヨタは、戦前の1933年(昭和8年)に豊田自動織機製作所内に自動車製造部門を設置し、クルマの開発に乗り出した。エンジンは米国のゼネラルモーターズのシボレーを、またトラックはフォードを、そして乗用車はクライスラーをそれぞれ手本として構想を練りはじめた。
同時に日本のクルマ開発の黎明期に活躍した人材の採用をはじめている。今日でいうヘッドハンティングだ。ほかにも当時はクルマで使える鋼材が手に入らなかったので、自社で準備するよう設備投資をしている。将来的には航空機残業へも進出する構想もあったようだ。
2年後の35年に、A1型と呼ばれる試作乗用車が完成した。ただし一部には、シボレーの部品が流用されていた。同時期、クルマの国産化を目指す国策によってトラック製造を依頼され、これに応じる。そしてA1型乗用車の3か月後に、G1型トラックの試作車も完成させた。年末には、G1型トラックから発売を開始する。
ところがそれらA1型乗用車はエンジンの出力が十分でなく、G1型トラックはリアアクスル破損といった課題を抱えた。問題点を1年後に改良したのが、AA型乗用車とGA型トラックである。36年9月には、東京でお披露目となった。
マイカー時代到来を見越してクラウンを開発
この間、すでに1931年には満州事変が起きており、第二次世界大戦へ向かっていく。社会情勢の変化によりクルマの製造・販売も難しい時代を迎えた。そして戦争が終わった4年後の49年に、クルマの自由販売許可へ時代は動いたのである。ここから、本格的なクルマ開発と販売が前進していくことになる。
1950年(昭和25年)になると、タクシー需要が増加しはじめる。それまでは、どちらかといえば物流のためのトラックが戦後の経済復興を後押ししたが、人々が移動に使う乗用車の量産へ本腰を入れる時代になってきたのである。
それまでもトヨタはクルマを開発・製造してきたとはいえ、内情はエンジンやシャシー開発が中心で、車体は専門メーカーがつくり、それを載せてトヨタ車として売っていた。これをエンジンも、シャシーも、そして車体もすべてトヨタ製としたクルマを開発する意思が固められ、しかもそれらすべてを国産技術で構築するというのが、トヨタの方針であった。
ちなみにほかの自動車メーカーの動向はというと、三菱重工(現在の三菱自動車工業の前身)は、米国カイザー・フレーザー社のミンクスを組み立て生産し、日野ヂーゼル工業(現在の日野自動車)はフランスのルノー、日産自動車は英国のオースチン、いすゞは同じく英国のヒルマンと技術提携するなど、ほとんどが海外自動車メーカーに依存していた。
したがって、戦後に国内のモータリーゼーション発展を築いた数々のクルマがあるが、クラウンは何より特別な存在なのである。そして55年(昭和30年)に、トヨペット・クラウンが売り出されることになる。
トヨペット・クラウンに搭載されたR型エンジンは、直列4気筒でボア×ストロークがほぼスクエアとなっており、当時主流のロングストロークに比べ高速型であった。排気量は1453ccで、最高出力は48馬力である。
ちなみに最新のヤリスの1.5リッターエンジンの出力は120馬力だ。基本構想を同じくするR型エンジンは、のちのコロナ・マークII GSSに搭載されたDOHCツインキャブレター仕様の10R型を含め、最終的にマイクロバスのコースターでも使われ、1994年まで41年間にわたって存続している。
変速機は、前進3段後退1段の常時噛み合い式で、回転を合わせるシンクロメッシュ機構を2速と3速に備え、ダブルクラッチを使って運転者自らエンジン回転を調節しなくても滑らかに変速できる機構を備えていた。手動変速(マニュアルシフト)とはいえ、のちにトヨタ自ら開発した自動変速機トヨグライドに通じる、運転の容易さへのこだわりはこのときから配慮されていた。
車体の特徴は、なんといっても前後ドアの開閉の仕方だろう。いわゆる「観音開き」といわれる方式で、前のドアは今日と同じ前方へ、一方後ろのドアは後ろ側へ開く機構で、これにより後席への乗降のし易さをもたらした。つまり、ドアを開けた際に足元が広く、車内へ乗りやすく、また降りるときにも足を地面へ降ろしやすくなる。
国内のみならず北米にも進出
クラウンの発売をきっかけに、トヨタの市場占有率は上向きとなり、売り出し前の54年に23.5%であったのが翌年には35.2%へ1.5倍近く拡大した。年間の乗用車生産台数も、50年の468台から、55年には7403台、そして57年には1万9885台へ大きく伸びた。
そして早くも、米国市場への進出が模索されたのである。57年に調査を開始し、米国本土への輸入業務や、州ごとに異なる型式認定の仕方、販売店の設置などを進め、翌年58年に輸出を開始した。
しかし、国内に技術本館(テクニカルセンター)が出来上がったのは54年のことで、併設される全長2km、時速100kmで走行できる走行試験路(テストコース)の完成は56年であった。このため、フリーウェイを視野に入れた米国での高速走行に対する性能はもちろんのこと、耐久性についても十分な準備ができていたわけではない。ちなみに、日本にはじめて高速道路ができるのは、63年の名神高速道路である。
初代トヨペット・クラウンの最高速度は、時速100kmであった。しかし、高速で走り続けることは想定されていなかっただろう。米国で高速走行を続けると、突如エンジン騒音が大きくなり、出力が低下する症状が出た。オーバーヒートが原因だった。
ほかにも、高速走行安定性の不足、激しい騒音と異常な振動の発生や、変形による部品の破損なども起きた。それらは随時改良がほどこされた。エンジンはより出力を高めた仕様が開発され、同時にテストコースには、57年に旋回試験用のスキッドパッドや、石畳路面(ベルジャンロード)、59年には特殊波状路、捩じり路、急坂路などが追加されることによって、走行安定性や乗り心地も改善されていくことになる。
発売から7年の歳月を経て、クラウンは1962年(昭和37年)に2代目へ引き継がれるが、初代クラウンで、トヨタは乗用車づくりに多くの知見を得たはずである。