無敵状態だったスカイラインR32 GT-Rの黄金時代
“レースで勝つために生まれたクルマ”。R32型スカイラインで復活した3代目GT-Rを、ひと言で表すならこの表現に尽きるだろう。もともと、スカイラインにおける「GT-R」の意味は、ツーリングカーレースに参戦し、そこで勝つことを目的に作られた車両を指すネーミングだった。”「スカイラインGTシリーズのレース用ベースモデル」こんな言い方が当たっているだろう。
「JTC」での苦戦が日産開発陣を本気にさせた
しかし正確な意味でレースを前提に作られたGT-Rは歴史的に2モデルのみである。初代PGC/KPGC10型GT-Rと3代目R32型GT-Rである。初代GT-RはプロトタイプR380のGR8型エンジンを量産化したS20型エンジンを搭載するモデルで、S20型エンジンの4バルブDOHC方式は、当時の量産車としてはあり得ない高度なメカニズムだった。SOHC方式が最先端のメカニズム、DOHC方式はごく一部の特殊な車両にしか使われれない高度なメカニズムとして考えられていた時代に、純レーシングカーでしか使われない4バルブDOHC方式を採用したGT-Rは、市場の度肝を抜く車両だった。まさにハコの形をしたレーシングカーだった。
そして1989年に登場したR32型スカイラインで復活した3代目のGT-Rも、ツーリングカーレースで戦うことに焦点を絞って企画、設計された車両だった。当時のツーリングカーレースは「グループA規定」が世界の基本で、性能向上のための改造を許さず、生産車の基本構造、基本メカニズムで戦うことを特徴とする車両規定だった。
日本でこのグループA規定のレースが始まったのは、1985年の「全日本ツーリングカー選手権(JTC)」からだったが、市販車の状態でグループAを見越した車両設計ができていなかったスカイラインは、ロードカーとして高度なメカニズムや性能を持ちながら、改造が許されないグループA規定のレースで大苦戦。
当然の成り行きだったが、惨敗する様子をサーキットで目にしたR32型スカイラインの開発陣は「サーキットレースで勝てなければスカイラインの存在価値はない」と痛感。R32型スカイラインシリーズに、かつてのGT-Rと同じくサーキットレースで勝てる車両の設定を決意。そうして“グループAで勝てるクルマ”として「GT-R」は企画されたのだった。
速すぎて自らパワーを引き下げ
1989年秋に登場したGT-Rは、やはり周囲の度肝を抜く内容を持っていた。車両1台まるごとグループA基準に照らし合わせた設計となったが、勝つために必要な要素をふたつ備えていた。
まず、レーシングカーの速さを左右する要素としてのエンジンである。GT-Rに採用されたエンジンは、専用設計による排気量2568ccの「RB26DETT」型。レース仕様を600ps+αと想定したエンジンで、排気量は自然吸気換算(ターボ係数1.7)で4500cc以下となるよう決められた。グループA規定は、排気量枠500cc刻みで、最低重量と使えるタイヤ幅に制限が設けられていた。
グループAレースで勝てるエンジンパワーを600ps+αと想定した日産設計陣は、必要なタイヤ幅と車両重量を考慮しながら、4500cc以下のクラスが最適だと判断し、2568cc(1.7倍して4366cc)の排気量を選択。興味深いのは、グループA仕様は高過給圧(ブースト圧1.6kgf/cm2)で圧縮比を下げて使うことになるが、圧縮比を下げた状態で、最適な形状となる燃焼室デザインで設計されていたことだ。言い換えれば市販車の280ps状態は仮の姿で、本来の姿は600ps+αのエンジンだった。
じつはブースト圧1.6kgf/cm2による600ps+αのエンジンパワーには話の続きがあって、実際にこの状態でレースに臨んだことはなかったのである。この状態だと他の同クラス車がまったく相手にならないほど速くなってしまい、GT-Rの完全独走劇に終始してしまうことが判明。逆に、これほど速いとレースの興味が削がれてしまうことから、GT-Rに何らかのハンディが課せられることを予見した日産は、GT-Rのブースト圧(パワー)をどこまで下げられるかをテストし、1.4kgf/cm2のレースブースト圧に落ち着いたという。勝つために工夫を凝らしてパワーの引き上げを行った苦労話はよく耳にするが、自車の不利にならないよう、レースを成立させるためパワーの引き下げに腐心した話は前代未聞である。
大パワーを生かす4WDシステム
この圧倒的なエンジンパワーを、駆動力としていかに効率よく路面に伝えるかが、GT-R第2のメカニズムポイントだった。日産はこの解決策として駆動力可変配分式の4WD方式を考案。「アテーサE-TS」と名付けられた4WD方式は、通常はハンドリングに優れた前後0対100のFR駆動力配分で走り、後輪が空転したときのみ前輪に余剰な駆動力を流し、駆動力の効率的な4輪配分を可能にするとともに、車両挙動の安定化を図った4WD方式である。結果、1輪あたりの負担馬力が下がり、タイヤに優しいメリットも生んでいた。
R32型GT-Rは1990年のJTC第1戦から活動を始め、1991年、1992年、1993年までの4シーズン、全29戦に参戦。29戦無敗、29連勝という前人未踏の記録を打ち立てることになる。
GT-Rの強さの根源は、先にも触れたように車両1台まるごとをグループA視点で設計・生産したことに尽きるが、強さの要素を濾していくと、強力なRB26DETT型エンジンと、可変駆動力配分によるアテーサE-TS4WDシステムに集約されるメカニズムが特徴だった。
国内では敵無し。海外の耐久レースでも活躍
1990年の参戦当初は、リーボック(長谷見昌弘)とカルソニック(星野一義)の2台だけだったが、シーズン終盤には4台となり、最終年の1993年には常時7~8台が顔を連ねる「GT-RのライバルはGT-R」の状態でJTCシリーズに参戦。4シーズン全29戦で29勝は圧倒的な強さだったが、1人で半分の14勝を記録した星野一義の走りは凄絶だった。
ちなみに1993年の最終戦、GT-Rの29勝目となる「インターTEC」を制したトランピオGT-Rのドライバーは、その後ル・マン24時間で9勝を記録するトム・クリステンセンだった。
またGT-Rは日本国内だけでなく、海外のグループA戦でも活躍。世界最高峰のツーリングカーレース、「スパ24時間」やストレスの大きな「ニュルブルクリンク24時間」で優勝した実績も大きな勲章となっている。
まさに無敵のツーリングカー、レース史上最強のツーリングカーと位置付けることのできる存在、それがR32型スカイラインGT-Rだった。