世界に冠たるトヨタ 乗用車第一歩もすべて自前の技術から
世界のトップメーカーにまで成長したトヨタが、初めて作った市販乗用車はまだ戦前の1936年に完成したAA型。その前年にパイロットモデルとも言うべきA1型を3台製作していて、パーツは手配のし易さからシボレーやフォードと互換性のあるものを使っていましたが、AA型はすべてが国産の技術で仕上げられたことが驚きでした。
当時、欧米に比べて我が国の自動車関連技術はまさに雲泥の差があり、ライバルの国産メーカーは、先進の欧米メーカーと技術提携し、ノックダウン生産しながら技術を磨き、同時にノウハウを蓄積していく方法をとっています。
ところがトヨタは…。確かに当時国内でも販売されていたシボレーやフォードを参考にしてはいましたが、そこから学び取った“自前”の技術でAA型乗用車を完成させたのです。
先進的な流線形のデザインが大きな特徴に
AA型のシャシーは、ラダーフレームへリーフスプリングで吊ったサスペンションを前/後組み込み、フロントに3.4L直6OHVのA型エンジンを搭載していました。完成当初は45馬力に留まっていた最高出力も、開発が進むにつれて65馬力にまで引き上げられています。
このシャシーに架装されたボディがなによりも特徴的でした。参考にしたとされる当時のシボレーやフォードは、いかにもクラシカルな“箱形”でしたが、AA型は1930年代の終りに大きなトレンドとなる“流線形”が用いられていたのです。
その効能はエクステリアデザイン、いわゆる見てくれだけに留まりませんでした。ラジエターを前進させて後傾マウントし、エンジン本体も前進させて搭載。このことで運転席の足元空間も広くなり、結果的にキャビンがホイールベースの間に収まることになりました。
豊田自動織機から分社独立したトヨタ自動車
AA型だけでなく、当時のトヨタについても振り返っておきましょう。トヨタ自動車…正確に表記するなら設立時点ではトヨタ自動車工業株式会社、が創立されたのは1937年。豊田佐吉翁が創設した豊田自動織機の内部で1933年に設立された自動車部が母体となりました。つまりAA型を世に問うた段階ではトヨタ自動車ではなく豊田自動織機製作所の商品だったのです。
なお自動織機の豊田はトヨタではなくトヨダと発音されていて、AA型の正式名称はトヨタAA型ではなくトヨダAA型でした。そして1936年10月にトヨタ・マークの採用に伴いトヨダからトヨタに改称され、新会社もトヨダではなくトヨタを名乗ることになりました。ちなみにトヨタ自動車工業は、戦後に設立されたトヨタ自動車販売と、1982年に合併して現在のトヨタ自動車に移行しています。
戦後にリリースされた本格的な量販車第1号はクラウン
大戦中は軍部の指導により、主にトラックを生産していたトヨタ。戦後まず最初にGHQ(連合国総司令部)からトラックの生産再開を認められ、それと並行しながら乗用車の開発に取り掛かっていました。
その後部分的に小型車の生産と販売が認められるようになると、トヨペットの愛称を持つSA型をリリースしますが、斬新なスタイルが災いしたのか販売では苦戦します。そこで改めて、本格的な乗用車を開発することとなり、1955年の1月に登場したモデルが初代RS系のクラウンでした。
57年に登場したコロナや61年に登場したパブリカが、今ではモデルブランドとして途切れてしまっていますが、クラウンだけは健在で、トヨタのラインナップの中でフラッグシップの立場を持ち続けながら、国内最長のモデルブランドとして一昨年、15代目が登場しています。