当時のフェアレディよりも高価だったコスモスポーツ
後年、もはや旧車として扱われる時代となって、私はコスモスポーツにはじめて試乗する機会を得た。運転した場所は、現在はマツダのテストコースとなっている、かつてのMINEサーキット(山口県)である。
アクセルを踏み発進してまず実感したのは、その軽やかな走りであった。そしてロータリーエンジンの滑らかな回転とともに、さりげなく速度を上げていく。ピットロードを出てすぐにカーブに差し掛かり、ハンドルを切りこむと、素直な挙動で旋回をはじめた。
旧車という時間の経過から、無理な加速や限界を試すような旋回は行わなかった。それでも、初代ロードスターよりもっと軽やかで意のままに運転できる様子に、新車で発売された当時の所有者はどれほど胸を躍らせただろうと羨ましく思えたのである。小さなカーブや切り返しの覆いMINEのコースを1周するだけの試乗であったが、コスモスポーツの素性を確かにこの体に覚えさせることができた。あの感触は今も忘れ難い。
コスモスポーツは、67年の発売から翌年の68年に早くも後期型へのマイナーチェンジを行っている。いざ市販してみると課題が見え、技術者たちはいてもたってもいられなかったのだろう。創業者の松田重次郎のように愚直な技術者の集団というマツダの原点が見えてくる。
改良点は、まず外観のフロントバンパー下のラジエター冷却口が拡大された。ロータリーエンジンの最高出力が128馬力に高められたからだろう。またフロントブレーキの冷却用の口も開けられている。そしてホイールベースとトレッドの拡大、変速機の4速から5速への変更、ブレーキ倍力装置の追加、ラジアルタイヤの標準装備などがなされている。
前輪駆動のためタイヤへの負担が大きかったスバル1000のスポーツにも67年にラジアルタイヤが標準となり、コスモスポーツやスバル1000が国内におけるラジアルタイヤ装着の先駆者といえる。
コスモスポーツの車両価格は、前期型で148万円、後期型で158万円であった。トヨタ2000GTが238万円であったことからすれば安いが、一方で、国内レースの日本GPで活躍し、市販車として誕生したプリンスのスカイラインGT-Bが94万円、日産のフェアレディが88万円であったことからすれば、かなり高額のスポーツカーであった。ちなみに、67年当時のサラリーマンの初任給は3万6000円前後であったという。