宇宙船のようなデザインに独自エンジンを搭載
コスモスポーツが発売された1967年は、55年生まれの私は12歳で、中学1年生だった。幼稚園の卒園アルバムの表紙に自動車の絵を描くほどの私だが、コスモスポーツの姿は宇宙船のように思えた。ガソリンエンジン自動車は、1886年にドイツのカール・ベンツによって発明されて以来、自動車はレシプロエンジンを中心に進化していた。それに対し、ロータリーエンジンを搭載するコスモスポーツには、レシプロエンジンと違った造形が与えられて当然なのだが、子供の目には自動車とは見えなかったのだ。
65歳のいまも、コスモスポーツの姿はなお独特だ。
マツダが量産市販にこぎつけたバンケル型ロータリーエンジンは、フェリックス・ヴァンケルが開発し、1964年にドイツのNSU(現アウディの前身)がヴァンケルスパイダーに搭載して発売した。
続く67年に、NSUはRO80を発売している。だが、いずれもコスモスポーツほどロータリーエンジンのために創造された造形ではなかったように見える。
コスモスポーツと同じ67年に、トヨタからは2000GTが発売された。子供心にも優美な姿にあこがれ、やがてコスモスポーツのことは忘れていた。だが、再びコスモスポーツへ目を向けるきっかけとなったのは、マラソン・デ・ラ・ルートと呼ばれるニュルブルクリンクでの84時間レースへ68年に参戦したことだった。
64年にホンダはF1に参戦したが、それとあまり差のない時期にマツダも海外のレースで独創の技術を試そうとしたのであった。このことで、マツダ(当時は東洋工業)という自動車メーカーを強く意識するようになった。
60年代から「人馬一体」の運転感覚をもたらした
2台で参戦したコスモスポーツは、初挑戦で総合4位の成績を残した。翌69年は、小型車のロータリークーペでマラソン・デ・ラ・ルート参戦と、ベルギーのスパ24時間レースへの参戦となった。スパではポルシェに次ぐ成績を残すなど、ロータリーエンジンの優秀さを欧州でいかんなく発揮させたマツダの存在は、日本の自動車メーカーの誇りの一つでもあろう。こうした経緯もあり、欧州でマツダの浸透はほかの日本車より高かったといえる。
マツダは、NSUと1961年に契約を交わしてロータリーエンジンの開発をはじめた。そして6年後にコスモスポーツとして結実するのである。
10A型といわれたロータリーエンジンは、2つ組み合わせた2ローターで、1ローターの排気量は491ccだった。したがって総排気量は982cc、すなわち約1リッターである。それで最高出力は110馬力であったから、相当な高性能エンジンといえる。
なぜなら、コスモスポーツに次いで68年に発売されたロータリークーペはコスモスポーツと同じエンジン形式ながらやや馬力を落とした100馬力であったものの、66年に相次いで発売された大衆車の日産サニーやトヨタ・カローラとロータリークーペはほぼ同じ車体寸法で、サニーは1リッターエンジン、カローラは1.1リッターエンジンを搭載したが、それらの最高出力は60〜70馬力前後であったからだ。ちなみに、サニークーペの1.4リッターエンジンでも最高出力は85馬力だった。
NSUとマツダによって開発されたばかりのロータリーエンジンが、すでに80年の歴史を積み上げていたレシプロエンジンに対し簡単に最高出力で超えてみせたのである。
しかも、ロータリーエンジンは小型かつ低重心であり、この特徴を活かしたコスモスポーツは、のちにいわれるフロントミッドシップに搭載された後輪駆動車である。フロントミッドシップという特徴は、RX-7でも採用される。
サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーンで、リアはド・ディオンアクスルと呼ばれる方式だった。これは、車軸式でありながら、デファレンシャルを分離することにより、タイヤの接地性を維持しつつバネ下重量を減らすのが狙いである。
バネ下とはブレーキなど含めたタイヤ周辺の部分を指し、その重量を減らせば路面へのタイヤの追従性がよくなりグリップを維持できることに加え、タイヤの上下動が穏やかになって乗り心地も改善される。国内では、日産と合併する前のプリンスが、57年の初代スカイラインで採用していた。
そのうえで、940kgというコスモスポーツの車両重量は、1トンを超えていたトヨタ2000GTより軽く、フロントミッドシップによる前後重量配分の適正化とあわせ、軽快さと、運転者の操作通りに進路を選ぶ、まさにその後マツダがロードスターを開発して以来愛用する「人馬一体」の運転感覚をもたらしたのである。
当時のフェアレディよりも高価だったコスモスポーツ
後年、もはや旧車として扱われる時代となって、私はコスモスポーツにはじめて試乗する機会を得た。運転した場所は、現在はマツダのテストコースとなっている、かつてのMINEサーキット(山口県)である。
アクセルを踏み発進してまず実感したのは、その軽やかな走りであった。そしてロータリーエンジンの滑らかな回転とともに、さりげなく速度を上げていく。ピットロードを出てすぐにカーブに差し掛かり、ハンドルを切りこむと、素直な挙動で旋回をはじめた。
旧車という時間の経過から、無理な加速や限界を試すような旋回は行わなかった。それでも、初代ロードスターよりもっと軽やかで意のままに運転できる様子に、新車で発売された当時の所有者はどれほど胸を躍らせただろうと羨ましく思えたのである。小さなカーブや切り返しの覆いMINEのコースを1周するだけの試乗であったが、コスモスポーツの素性を確かにこの体に覚えさせることができた。あの感触は今も忘れ難い。
コスモスポーツは、67年の発売から翌年の68年に早くも後期型へのマイナーチェンジを行っている。いざ市販してみると課題が見え、技術者たちはいてもたってもいられなかったのだろう。創業者の松田重次郎のように愚直な技術者の集団というマツダの原点が見えてくる。
改良点は、まず外観のフロントバンパー下のラジエター冷却口が拡大された。ロータリーエンジンの最高出力が128馬力に高められたからだろう。またフロントブレーキの冷却用の口も開けられている。そしてホイールベースとトレッドの拡大、変速機の4速から5速への変更、ブレーキ倍力装置の追加、ラジアルタイヤの標準装備などがなされている。
前輪駆動のためタイヤへの負担が大きかったスバル1000のスポーツにも67年にラジアルタイヤが標準となり、コスモスポーツやスバル1000が国内におけるラジアルタイヤ装着の先駆者といえる。
コスモスポーツの車両価格は、前期型で148万円、後期型で158万円であった。トヨタ2000GTが238万円であったことからすれば安いが、一方で、国内レースの日本GPで活躍し、市販車として誕生したプリンスのスカイラインGT-Bが94万円、日産のフェアレディが88万円であったことからすれば、かなり高額のスポーツカーであった。ちなみに、67年当時のサラリーマンの初任給は3万6000円前後であったという。