F1GPの盛況を支えたタバコマネーの流れ
健康志向の高まりから禁煙や嫌煙が大きな流れとなり、今では煙草メーカーのCMが流れる機会も激減してしまいました。しかしモータースポーツの最高峰、F1GPを始めとする様々なレースシーンにおいてはかつて、多くのコンストラクターやチームが煙草メーカーのサポートを受け、タバコカラーを身に纏ったマシンが覇を競っていました。
そしてタバコマネーは、レースそのものを力強く支えていました。今回は、今ではなくなってしまったものの、記憶に残るタバコカラー(のレーシングカー)の歴史を振り返ってみることにしましょう。
F1がナショナルカラーからタバコカラーへ
かつてのF1GPでは、参戦するマシンはすべて、チームが所属する国別のカラーリング=ナショナルカラーに塗られていました。ロータスやブラバム、クーパー、BRM(British Racing Motors)らイギリス勢はブリティッシュグリーン、マートラ(フランス)はフレンチブルー、そしてフェラーリ(イタリア)はイタリアン・レッドという状況。
64年にデビューした日本のホンダが、初めての日本チームとなってナショナルカラーを決める際に、本田宗一郎は、黄金の国ジパングに因んでゴールドをF1主催者に提案したものの、すでに南アフリカのナショナルカラーとして登録されていて断念。次にアイボリーを提案したところ、ドイツ(当時は西ドイツ)のシルバーと見分けがつき難いと却下。アイボリーに日の丸の赤を施すナショナルカラーが誕生した経緯がありました。
そんな由緒あるナショナルカラーの常識を打ち破ったのがコリン・チャップマンが率いる名門のロータスでした。アルミのモノコックにエンジンとミッションをリジッドマウントするパッケージングに始まり、グランド・エフェクト理論=ウィングカーなど技術革新をもたらしたことで知られていますが、スポンサー・カラーを導入したのも彼らのアイデアだったようです。ともかく、ここからF1GPが一層華やかになっていったのは事実です。
口火を切ったロータスは「ゴールドリーフ/JPS/ キャメル」と推移
そのロータスが最初にサポートを受けた煙草ブランドはゴールドリーフ(英国のインペリアル・タバコ)でした。マシンの上半分を赤、下半分を白に塗り分けその境目に配したゴールとのストライプがノーズを彩るという、まだナショナルカラーが大半だった当時としては、ド派手なルックスとなりました。
これは69年にテスト的に参戦した4輪駆動のロータス63・フォードですが、68年の主戦マシン、ロータス49・フォードから同スポンサーでした。またロータスのスポンサーサービスでもあったのか同時代のF3もゴールドリーフ・カラーに塗られていました。
ロータスとインペリアル・タバコとの蜜月は長く続き、71年までのゴールドリーフに代えて72年からはジョン・プレイヤー・スペシャル(JPS)カラーを採用。
2年間の“休息期間”を挟んで86年まで続いています。そして翌87年、ホンダのターボエンジンを手に入れたロータスは、同時にキャメル(米国のR.J.レイノルズ)をタイトルスポンサードに迎え、ブラックからイエローへとカラーリングを一新することになりました。
70年代以降 モータースポーツシーンを席巻した「マールボロ」
F1GPと煙草のスポンサーと言えば、多くのファンが最初に連想するのはやはりマールボロ(米国のフィリップモリス)でしょう。中でもマクラーレンとのジョイントが強烈な印象となっています。
74年に契約を交わしてから96年まで、四半世紀近くもマールボロ・カラーを身に纏っていたマクラーレンですが、実はマールボロをF1GPに導いたのはBRMでした。前年までのタイトルスポンサーだったヤードレー化粧品(英)に代わり、72年には新たなタイトルスポンサーとしてマールボロを迎え入れたのです。
ただし、72年にジャン-ピエール・ベルトワーズが1勝を挙げたもののコンストラクターランキングではフェラーリと同率6位、翌73年には未勝利でランキング7位、と振るわなかったことから、マールボロは、74年にはマクラーレンに鞍替えしたのです。
因みに、71年限りでBRMと袂を分かったヤードレーは72年から2年間、マクラーレンのタイトルスポンサーを務めています。こうなるとBRMの不振に愛想をつかしたのが先か、マクラーレンの営業パワーに押されたのが先か……。今更問い直すことは叶わないのですが、どうにも気になるポイントではあります。
さて、マールボロのサポートを得たマクラーレンは同年、初のコンストラクタータイトルを獲得するとともにエマーソン・フィティパルディがドライバーチャンピオンに輝き、栄光への再スタートを切っています。80年代も中盤に入るとその強さは圧倒的で、84年から93年までの10年間でコンストラクターランキング1位が6回2位が4回、さらに延べ7人のドライバーチャンピオンを輩出しています。
ホンダの最盛期にジョイントしていたことも、日本での好印象につながっていますが、いずれにしてもマールボロ・マクラーレンは一時代を築いていました。