ロケットからタンカーまで手掛ける三菱重工業から独立誕生した三菱自動車工業
かつては“RV王国”としてさまざまなヒット商品をリリースする一方で、パジェロでパリ~ダカール・ラリーを制し、ランサー・エボリューションで世界ラリー選手権(WRC)の王者となった三菱自動車は、我が国の三大重工業の一つとして知られる三菱重工業から独立して誕生した自動車メーカーです。
そもそも三菱重工業のクルマづくりの歴史は長く、戦前から自動車生産を手掛けてきていました。戦後の財閥解体によって3社に分解されましたが、64年には再び3社が合体して三菱重工業として再出発。70年に自動車部門が分社独立、三菱自動車工業が誕生しています。今回はそんな三菱の、クルマづくりの歴史を振り返ることにしましょう。
100年以上前に三菱造船で作られた「A型」は国内初の量産乗用車
三菱が初めて自動車を生産したのは1917年のことでした。三菱財閥が長崎造船所を擁して造船事業に乗り出し、三菱重工業の創業とされる1884年からは33年を経ていましたが、前身の三菱造船が発足したのもこの年でしたから、自動車の生産はいささか時期尚早だったと言えるかもしれません。
実は軍部からの要請に応じて三菱造船の神戸造船所で立ち上げられたプロジェクトで、フィアットのA3-3型を“お手本”として製作されたようです。最高出力35馬力の2.7ℓプッシュロッドの4気筒エンジンをスチール製のラダーフレームに搭載。前後のサスペンションは半楕円リーフで吊ったリジッド式と、コンベンショナルな仕上がりとなっていました。
ただし予想した以上に製作コストが掛かってしまい、また航空機の生産に主力を移すという社内事情もあって21年までに22台を製作したのみでプロジェクトは頓挫してしまいました。それでも我が国初の量産乗用車として認められ、自動車技術会が選定する『日本の自動車技術180選』にも選ばれています。
現在は岡崎市にある三菱自動車工業の乗用車技術センターに併設された三菱オートギャラリーに復元車が収蔵展示されています。
大型車担当の日本重工業はヘンリーJをノックダウン生産
戦後の財閥解体により三菱重工業は3社に分割されてしまいました。
このうち大型車を担当することになった東日本重工業(後の三菱日本重工業)では米国のカイザー・フレイザー社とライセンス契約を交わし、51年から54年にかけてヘンリーJのノックダウン生産を行っています。
一方、小型乗用車を担当することになったのは神戸市に本拠を構える中日本重工業(のちの新三菱重工業)でしたが、戦後最初の製品として世に出たのはスクーターのシルバーピジョンでした。
中島飛行機を前身とする富士重工業(現SUBARU)のラビットとともに市場を二分するヒット商品となったシルバーピジョンでしたが、考えてみれば戦時には三菱重工業が生産する海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に対して中島飛行機が生み出した陸軍の一式戦闘機(隼)。
ここから始まるライバル関係は、戦後のスクーターを経て90年代WRCのランサー・エボリューション vs スバル・インプレッサWRXへと続くネバーエンディングストーリーだったことが分かります。とても興味深いことですが…。