通商産業省の国民車構想に応えて登場した三菱500
戦後、国内のモータリゼーションが大きく進化する一つのきっかけとなったのが通商産業省(現経済産業省)がまとめた国民車育成要綱(案)、いわゆる“国民車構想”でした。4名乗車で最高速度100㎞/hを出せ、時速60㎞で走行時の燃費は30km/ℓ、などといった条件を満たせば政府が生産を支援するというものでした。
当初は大方のメーカーが実現に否定的な見解を示していましたが、やがてトヨタなどから、対応したクルマのプロジェクトが発表されるようになってきました。シルバーピジョンを作っていた新三菱重工業・名古屋製作所の、この国民車構想に対する回答が、60年に登場した三菱500でした。
空冷のプッシュロッド2気筒エンジンをリアに搭載、モノコックフレームに4輪独立懸架の高度なサスペンションを組み込んだ2ドア4シーターで、ヨーロッパ、とくにドイツのコンパクトカーに範をとったパッケージとなっていました。
現実的なパフォーマンスとしてはこれで十分でしたが、ライバルとして700㏄のパブリカが登場してくると非力感は否めなくなってきました。またシンプルすぎるスタイリングや簡素な装備も、より豪華さを求める当時のユーザーには不評でしたが、スーパーデラックス、コルト600と進化し続け、次第に人気を博すようになっていきました。
3輪トラックから軽商用車を経て登場した三菱ミニカ
一方、岡山県の倉敷市にある新三菱重工業の水島製作所では、40年代終盤になるとオート3輪トラックのみずしま号や軽3輪トラックのレオを生産するようになっていきました。
そしてその延長線上で4輪の軽自動車を登場させることになりました。
先ずは61年に三菱360が登場します。これには3ドアのパネルバンとライトバン、そして2ドアのピックアップ・トラックという3タイプのバリエーションが用意されていました。360㏄のエンジンは強制空冷の2ストローク2気筒でしたが、フロントエンジンの後輪駆動で前後のサスペンションもリーフスプリングを吊ったコンベンショナルなパッケージでした。
そのバンをベースに2ドアセダンにコンバートして、翌62年に登場した軽乗用車が初代の三菱ミニカです。リアシートのヘッドスペースを稼ぐためにリアウィンドーを垂直に立てたことで、ライバルと一線を画す3ボックスの端正なエクステリアが実現するとともに、ライバルを凌駕するトランクスペースを確保することになりました。
ただし苦戦が続き69年には初のフルモデルチェンジで三菱ミニカ70のネーミングで登場。このスポーティなモデルが人気を呼ぶことになりました。