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日産ファンなら知っておきたい! ニスモは「いつ」「どうやって」生まれたのか

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TEXT: 大内明彦  PHOTO: 大内明彦、Auto Messe Web編集部

厳しい排ガス規制で活動は休止状態に

 実際、排出ガス対策は技術的なハードルが非常に高く、当時世界一厳しいといわれた「昭和53年排出ガス規制」をなんとか達成しようと、まさに企業の総力を結集した開発体制が取られ、モータースポーツに振り向ける余力は皆無だった。

 さらに、自動車の排出ガスが問題視されていた当時「ガソリンを無駄使いし、排出ガスは出し放題のレースとはなにごとか」という論調のマスコミによる非難もあり、仮に企業に余力があったとしても、社会的に自動車メーカーがモータースポーツに参画することは許されない状況にあった。「排出ガス対策済」ステッカー

 その風向きを変えられたのは1970年代終盤のこと。難関だった排出ガス規制の達成に成功すると、自動車メーカーは大手を振ってモータースポーツに参画できる環境となったのである。しかし、当時の日本のモータースポーツは、プライベーター主体の「F2」や「GC(グランチャンピオン)」しか存在せず、自動車メーカーの規模や技術力を必要とするカテゴリーはなかったのである。

モータースポーツの再始動と「NISMO」の設立

 NISMOが誕生したのはまさにこうした時代で、日産は1979年に始まるシルエットフォーミュラ(グループ5)に、追浜開発のターボエンジンを大森が窓口となって日産系有力プライベーター(長谷見昌弘、星野一義、柳田春人)に供給。はた目には日産チームと見えたが、実状は3つの組織によって構成され、結果的にプライベートチームごとに参戦活動を行う体制だったため、開発力、組織力、チーム運営などで不都合が多々あった。シルエットフォーミュラで走行するスカイライン・ターボ

 とくに1983年からメーカーの技術力が必要なグループCカーレース(全日本スポーツプロトタイプカー選手権=JSPC)が始まると、参戦組織の一元化は必要不可欠な要素となり、1984年9月、大森分室(宣伝3課)の所在地に日産自動車のレースカンパニー、NISMOが発足することになったわけである。大森が持つレース車両やパーツの開発能力、レース運営能力に、特殊車両課が持つエンジン開発能力を加えた組織体で、NISMOによって日産のレース活動は一元化されることになった。雨のサーキットを走るニッサン・シルビア・ターボCニチラ

 この1984年という時代背景は、翌1985年から新たな車両規定(グループA)による全日本ツーリングカー選手権の発足も決まっていただけに、メーカーとして本腰を入れてレースに取り組むためには、専門の組織体(企業)は必要不可欠だったのである。サーキットを走るオートテック・スカイラインRSターボ

 ちなみにNISMO創設後の日産のモータースポーツ戦績は、全日本ツーリングカー選手権(1986年=スカイラインRSターボ、1989年=スカイラインGTS-R、1990〜1993年=スカイラインGT-R)、全日本スポーツプロトタイプカー選手権(1990〜1992年=R90CP〜R92CP)、全日本ラリー選手権(1985年=フェアレディZ)と全日本選手権タイトルを相次いで獲得。サーキットでのデモランを披露するR92CP

 1986年には60年代からの念願だったル・マン24時間にも参戦を開始。NISMOは日産モータースポーツの総本山として、名実ともに日本のモータスポーツ界を牽引するかたちで現在にいたっている。1986年のル・マン24時間レースに出走したR85Vアマダ

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