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「シャンパンじゃなく牛乳」「顔だらけのトロフィー」「巨大な指輪」! 佐藤琢磨が2度も勝った「インディ500」の「特別」度

日本はモータースポーツの真髄を理解できるのか

 佐藤琢磨が二度目のインディ500優勝を果たした。これはとてつもない偉業だ。アメリカの全国紙でも「佐藤が」という点を強調しつつ大々的に報じらていた。1回でも勝つのが大変なのをアメリカ人は理解している。今年で104回目の開催。歴史の重みってやつだ。
 インディ500はアメリカンドリーム。勝てば名前が全米に知れ渡り、巨額の賞金も転がり込む。それなのに日本で、「あ、また勝ったの」ぐらいに扱われてるんじゃないか……と心配だ。2017年に勝ったばかりだから、4年で2回目の優勝。”簡単感”が漂っちゃってはいないか……。

酔いしれる勝者のミルク

 歴史を重ねて来ただけに、インディには伝統、しきたりが数えきれないほどある。

 その代表的なものが、表彰台=ビクトリーレーンでウィナーがミルクを飲むこと。1936年のウィナーがビクトリーレーンで、「冷えたミルクが飲みたい」とリクエストしたのが始まりと言われている。彼はその後2勝し、ミルク飲みはインディを象徴する伝統的儀式になった。

 元F1チャンピオンのエマーソン・フィッティパルディは1993年にインディでの2勝目を挙げた際、自分の農園の宣伝のためにオレンジジュースを飲んでミルクを飲まず、物議を醸した。当時からインディアナ州の酪農協会がインディ500のスポンサーになっていたので、勝ったらミルクを飲むのが今ではルールとして徹底されている。

 インディ500では33人の決勝出場者全員にアメリカンサイズのリングが授与される。予選を通過し、伝統のレースに出場した証として。そして、ウィナーにはさらに大きな優勝リングが贈られる。宝石店もスポンサーとなって、インディの知名度を宣伝に利用しているのだ。佐藤琢磨は公式の場には必ずチャンピオンリングをつけて出ている。鈴鹿サーキットでのF1日本グランプリでトロフィープレゼンターを務めた時も、迎賓館でのアメリカ大統領歓迎晩餐会に招かれた時も、総理大臣賞を授与されるので総理官邸を訪れた時も。

 佐藤琢磨はインディ500での2回目のビクトリーレーンで、頭から派手にミルクを被った。それが実に様になっていた。さすが2回目だ。指輪のコレクションは出場者用11個、チャンピオン・リング2個となった。さらに、ウィナーにはペースカーもプレゼントされる。今年のペースカーはミッドシップエンジンになった新型シボレーコルベットだった。佐藤琢磨はフロントエンジン、ミッドシップと2台のコルベットオーナーになったわけだ。

 インディー500はトロフィーも巨大だ。純銀製で、佐藤琢磨の身長ほどもある。ボーグウォーナーという自動車部品メーカーがスポンサーとなって作られたトロフィーは、初代からのウィナー全員の顔の彫刻が貼り付けられる実にユニークなものだ。

 佐藤琢磨の顔は、このシーズンオフにふたつめが作られ、トロフィーに取り付けられる。巨大トロフィーはインディアナポリスモータースピードウェイ内のミュージアムに常に展示されており、ウィナーと、ウィニング・チームのオーナーにはミニチュアトロフィー=ベイビーボーグが授与される。ドライバー用には顔の彫刻も台座部分に取り付けられる。

常時、時速350キロでのコンマ数秒勝負の駆け引き

 インディでの複数回優勝は佐藤琢磨が20人目だった。「意外に多い」と感じられるだろう。一度勝つとまた勝ち易い面が、ないわけではない。例えば、長距離なので、まずはマシンを壊さない、無理をさせ過ぎないドライビングが必要。レース中に変化するコンディションにマシンを合わせて行くノウハウも要る。特にレース終盤のコンディションを予測できれば有利になるわけだが、そうできるようになるには経験が豊富な方がいい。……などなど理由は色々あるが、2回勝つのは簡単じゃない。シリーズチャンピオンになっているドライバーたちでも、インディではとうとう勝てなかった、あるいは1勝でとどまっている人は多い。

 インディ500では、終盤戦の一騎打ちでの勝負強さが試される。自動車、特にレーシングマシンの信頼性が高くなかった頃なら、トップに出た後は逃げて、逃げて、逃げまくるのが勝ち方だったけれど、近頃のマシンは壊れないから、トップがいいことづくめ……ではない。ドライバーの駆け引き、テクニックが最後には決め手になる。トップを走るべきか、2番手につけて終盤土壇場での逆転を狙う方がいいのか……。いつ勝負を仕掛けるのか、そのタイミングを図るのが難しい。

 インディ500の舞台、インディアナポリス・モーター・スピードウェイは1909年の創業。インディ500は1911年から2回の世界大戦中を除いて開催され続けている。ル・マン24時間より12年前に始まっていた。F1グランプリ(こちらはシリーズだが)は1950年スタートだ。1909年当時に全長が2.5マイル=約4キロもある巨大なスピードウェイを作ろうと考えた人たち、それを実行しちゃった人たちがまず凄い。そこで年に一度のレースが開催されるようになり、どんどん知名度、人気は高まって行った。直線4本をバンクのついたコーナーで繋げただけのコース。スピード=技術力ということで、自動車メーカーとしては勝てば大きな宣伝効果が上げられた。 アクシデントなどの危険を恐れずに自動車を速く走らるドライバーたちも、レースが重ねられるに連れて注目が集まるようになった。インディ500は当時も今も豪快なレース。時代々々の最高速で突っ走り続ける。近年ならトップスピードは時速400km近いが、コースの外側は壁とフェンス。今は壁自体が衝撃を吸収する構造になってはいるけれど、一瞬のミス、小さなトラブルがクラッシュに繋がり、その衝撃は凄まじい。

 おかげでインディではマシンやコースの安全性を向上させる技術がたくさん生まれてきている。車の後ろを見るバックミラーもインディが最初。今年からはコクピットがウィンドウスクリーンで覆われ、また安全性が一段高まった。
 高速を保ち続けてのレースを大味だと見る人もいる。しかし、時速350キロを保っての走行というのは、常にマシンの極限でバトルをし続けているということ。それだけのハイスピードでマシンはコントロールできる状態に仕上がっているのだ。ウィングの角度を0.4度変えたらハンドリングがガラッと変わる、というぐらいにマシンのセッティングは繊細だ。

 ステアリングを切るタイミングが0.5秒遅れただけでコーナー出口のライン取りが厳しくなり、高速走行だけに風の影響も受け易い。前から吹く風はマシンを路面に押しつけるが、後ろからの風はマシンを不安定にさせる。他のマシンが作り出す乱気流も、空気の流れは目に見えないから、どうなるかを常に予測しながら走らないとならない。ドライビングも非常に緻密なのだ。 そういうレースで琢磨は勝った。しかも、2回目は自分のシナリオを書き、その通りにレースを進め、コースのコンディションを感じ取ってマシンを着々と調整し、勝負の時に備えた。終盤の一騎打ちの相手は、通算49勝で5回もシリーズチャンピオンになっている現役最強のスコット・ディクソンだった。その勝負で琢磨はインディ2勝目を挙げ、ディクソンは2勝目を逃し、3回目の2位フィニッシュを記録することになった。

 エリオ・カストロネベスはインディで3勝しており、4勝目を目指して参戦を続けているが、今年は予選結果が28位と悪く、決勝では粘り強さを見せたものの11位だった。

F1チャンピオンもそうそう勝てるものではない

 F1で二度ワールドチャンピオンになっているフェルナンド・アロンソは、強豪アンドレッティ・オートスポートから出場した2017年の初挑戦では優勝争いに絡んだが、2019年にマクラーレンをF1から引っ張って来たら(以前にマクラーレンはインディカーにマシンを提供していたが)、予選落ち! 今年はマクラーレンが作ったインディカ・フル参戦用チームから3回目の挑戦を行い、予選前にアクシデント。2回目の出場を果たしたものの、26番手スタートだったレースでは中団を走り続けて21位フィニッシュという結果に終わった。 琢磨は1回目の優勝をアンドレッティ・オートスポートで記録した。アロンソとはその年にチームメイトだった。しかし、チームがエンジンをホンダからシボレーに変える可能性が浮上したので、ホンダ・エンジンを使うことが決まっていたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍。そちらはインディ500での速さを確保できずに苦しんでいたチームだが、琢磨は3シーズン目にしてインディ500で予選3位に食い込み、レースでは優勝した。その上、チームメイトのグレアム・レイホールも3位フィニッシュ。レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング全体の奮闘が実ったわけだが、琢磨が躍進のための大きな原動力になっていたのは間違いない。

 来年の5月を琢磨はインディ500ディフェンディング・チャンピオンとして迎える(今年はバンデミックで8月開催だったが、5月第4週開催が伝統)。その時の彼は、優勝候補の筆頭に挙げられるだろう。3勝目はおおいに有り得る。

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