『ちいさなクルマ』の可能性を モータースポーツを通じて発信
現行のLA400系コペン誕生の裏で、開発メンバーのひとりとして携わった、ダイハツ工業の殿村裕一(とのむら ゆういち)さん。昨年は、自らがつくったLA400系コペンを駆って「近畿ジムカーナミドルシリーズ(JAF公式戦)」のATクラスで悲願のシリーズチャンピオンを獲得。
そんな殿村さん、ダイハツに入る前は三菱自動車に在席していたのだが、そこでパリダカや世界ラリー選手権の現場で活躍していた人物でもある。メーカーの開発者が自らステアリングを握り、モータースポーツの世界に殴り込む──何とも興味深い話である。そこで今回、殿村裕一さんに、コペンでジムカーナに参戦する想いを伺うべく、学生時代からいままでを振り返ってもらった。
山野哲也先輩に出会ったのがすべての始まり
社会人になって以降、2つの自動車メーカーで輝かしい業績を残し続けている殿村さんだが、上智大学在学中に山野哲也さんに出会ったことがいまにいたるすべての始まりだという。
山野さんとはレーシングドライバーの山野哲也選手、その人である。全日本ジムカーナで、昨年までに19回ものシリーズチャンピオンを獲得している「ジムカーナ・キング」の異名を持つ、ジムカーナ界のスーパースターだ。
山野選手の凄すぎるスーパーGTやジムカーナの戦歴、さらにはジャーナリスト、さまざまなメーカーの開発ドライバーとしての活躍ぶりにつていはここでは割愛させていただくが、殿村さんにとって、その後の人生を左右する運命的な出会いがあったという事実がじつに興味深い。
余談にはなるが、LA400系コペンが世に出るとき、山野哲也さんが業界関係者向けの試乗会にジャーナリストとして参加している。そんなめぐり合わせも“運命”を感じるエピソードである。
上智大学 自動車部時代の殿村裕一さん
スポーツ好きだった殿村少年は、小学生の頃からバスケットボールをやってきたという。上智大学では、バスケットボール同好会に入ろうとしたものの、プレーする機会よりも飲み会の機会の方が多い雰囲気だったらしく、入会をあきらめた。その後、アテもなくふらふらと迷っているところに、同級生から誘われて自動車部に入部。そこで、山野哲也さんに出会うのである。
「山野さんは2コ上の先輩になります。私が1年生のときに山野さんは3年生でした。その時点でもう、全日本学生ジムカーナやコンテストで優勝するなど、類い稀な才能を発揮されてました。そんな山野先輩とは、ほぼ毎週、週末の夜になれば一緒に走りに行って、ドラテクの基礎を教わりました。とにかく山野さんの走りは、私にとって衝撃的だったのです。そこからが私のモータースポーツ人生の始まりです」。
殿村さんが最初に乗ったのは、AE86(トレノ)。殿村さんの年代では、まさに「あるある」な車種。自動車部時代に、そのAE86でジムカーナとラリーに参戦開始。モータースポーツが仕事になった数年間は、自分がドライバーとして出場することはなかったが、思い起こせば、19歳からいままでずっと走り続けていることになる。
大学を卒業して三菱自動車へ入社
殿村さんの大学生時代と言えば、ちょうどバブル景気にあおられ、日本国内においてもF1やWRC(世界ラリー選手権)、パリ・ダカールラリーなどが一気にメジャー化し、モータースポーツが大盛り上がりしていた頃だ。
大学卒業後、殿村さんは三菱自動車に入社。ミツビシでは、エンジン研究部に配属され、ラリーエンジンの開発を担当したり、パリダカやWRCの現場支援にも従事し、まさに世界を渡り歩いた。
三菱入社後にギャランVR4を購入。自分のクルマでは競技には出場しなかったが、同期メンバーのギャランVR4でナビゲーター役としてラリーに出場した経緯もあった。
「出身の上智大学自動車部が主催するジムカーナ大会で、自分のギャランVR4を持ち込み、山野哲也さんに乗ってもらったんです。ランエボなどの4WD車でのジムカーナ参戦がメジャーになる前のことなのですが、山野さんが華麗なスピンターンを決めたときの感動はいまでもよく憶えています」。
「もちろん三菱での良い思い出もいっぱいあります。1998年にはパジェロでパリダカ1-2-3-4位フィニッシュと、WRCではランエボでマニュファクチャラー&ドライバーのダブルタイトル(ドライバーはトミ・マキネン)獲得に微力ながら貢献することができました」。
そして殿村さんがラリーチームのときに手がけた、MIVECエンジンを搭載したミラージュ(最終型の1999年式)で、ドライバーとしてジムカーナに本格参戦を再開。MIVECとは、シビックのVTECエンジンに対抗すべく開発されたエンジンのことだ。そのミラージュではG6ジムカーナで初優勝も遂げている。その後はコルトでも出場し、近畿ミドルでクラス2位が最高位だったらしい。