ワールドプレミアはトリノショーで行われていた!
今はなき「プリンス自動車」が生み出した名車は多いが、そのなかでもスカイラインは現在にも続く、代表格だ。その連綿と続く系譜のなかで、亜流ともいえる存在がスカイラインスポーツだ。スカイラインの名前が付いてはいるものの、そのデザインはまったく別物。クルマ好きの方ならご存知のように、丸目4灯の強烈なつり目で、リヤはテールフィンをうまく取り入れたスタイルだった。
1960年に発表されたモデルなのだが、当時の日本車としては斬新かつ最先端のデザインで、それもそのハズで手がけたのは、イタリアのデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティだった。ちなみに日本車初のイタリアンデザインでもある。
ミケロッティの作品は、ほかのメーカーではトライアンフではかなりのモデルをデザインしたし、戦後におけるBMWの危機を救ったノイエクラッセと呼ばれる新シリーズを手がけている。またスカイラインスポーツの直後には日野のコンテッサもデザインするなど、小規模ながらかなりの活躍をしている。
デザイン的な特徴としては、スカイラインスポーツにも採用されている「チャイニーズアイ」と呼ばれるつり目や、クリーンで伸びやかなサイドからリヤにかけてのラインなどがあり、斬新さと手堅さをうまく両立されている点にある。奇抜ではないけど、新しさを感じさせるデザインだ。
コンバーチブルモデルもあったスカイラインスポーツ
いずれにしても、1961年の東京モーターショーでの国内発表を経て、1962年に市販を開始したときにはクーペとコンバーチブルの2タイプが用意された。ちなみにショーモデルと市販モデルとは細かいところが異なっていた。また、この東京モーターショーの際には、ショーモデルとしてプリンススポーツという流線型のクルマもミケロッティが手がけて出品している。
1台1台手作業で生産がなされていた
市販化されると、そのボディは手作業で作られ、イタリアから職人をプリンスの工場に呼んで指導してもらいながら作られていた。それもアダとなって、価格はクーペは185万円で、コンバーチブルは195万円となり、これはクラウンの2倍弱にもなる価格で、トータルで売れたのは60台ほどと、結局販売的には大失敗だった。ちなみにクーペが35台で、コンバーチブルが25台とされているが、諸説はある。
販売的には失敗とはいえ、カーデザインとはなにかを本場イタリアとの実際のやり取りで吸収できたのは大きな収穫だったし、ボディ製作でも得る物が大きく、その後の市販車やレース車両に活かされているだけに、無駄ではなかったのは確実だ。