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「スゲェGT-Rを作ろう」で誕生! 1200万円の超絶戦闘機「NISMO 400R」に知られざる開発秘話

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TEXT: 竹内俊介  PHOTO: GT-R Magazine編集部

「スゲェGT-R」を目指し試行錯誤の連続

 ’94年の秋には翌’95年1月にR33型スカイラインGT-Rがデビューすることがわかっていた。そこで「GT-R=NISMO」のイメージを作るべく、ストリートパーツについてはR33型GT-Rの発表と同時発売を目指した。ターゲットは’95年1月6日の東京オートサロン会場でのNISMO仕様のお披露目。ただし、開発車両が手元に来るのは’94年12月。開発期間はほとんどなく走行テストも行えない。最低限、外観だけは必須と考え、エアロパーツの開発を優先した。

 こうしてドタバタな中で迎えた東京オートサロン。展示車両名は「400Rプロト」とした。前年にシルビアベースの270Rを発売したことから、この車両名がコンプリートカーを意識したものであったのは誰の目にも明らか。しかし、この時点では正式にコンプリートカーとして製作するとは決まっていなかったものの、反響はかなり大きかった。スペックボードには最高出力=400psと表記。排気量はオリジナルの2568㏄のままだった。ただし、ターボはN1仕様のメタルターボ。そのほか、さまざまなパーツも列挙されていた。ちなみに、なぜ400psだったのかというと、N1耐久レースやグループN仕様で挑戦したスパ24時間レースなどでの実績を踏まえ、このパワーならばトランスミッションなど駆動系の耐久性もわかっていたからだった。東京オートサロンにNISMO「400Rプロト」として展示した時のフロントビュー 東京オートサロン終了後、まずは単品で販売するストリートパーツの開発が始まり、同時にコンプリート化も視野に入れていた。結局、コンプリートカー開発のGOサインが出たのは、ストリートパーツ開発がひと段落した’95年の夏だった。開発ドライバーは木下隆之選手に依頼した。筆者と木下選手はR32型スカイラインGT-RのN1耐久レースデビュー時からの付き合い。’90年のスパ24時間レースも共に戦った仲間である。

 問題はどういうコンセプトにするかだった。アプローチは二つ。N1レース車両を合法化する手法。もう一つは当時盛んにだったサーキット最速のチューニングカーだ。当初は後者を選択していた。とにかく木下選手とは「スゲェGT-Rを作ろうぜ!」ということで方向性は一致していた。テストステージもサーキットや箱根周辺のワインディングロードを中心に行った。もちろん、移動区間も重要なテストロードだった。NISMO 400Rの走行シーン

 やがてN1レース車と同じ2.6Lのままメタルターボを装着した400ps仕様が完成し、本格的な走行テストが始まった。ところが、ベンチテストでは400ps以上出ているエンジンなのに、実際に走ってみると中低速のトルクはなくレスポンスも悪い。それでいて、高回転域でもパンチ力がない。わかりやすく言えば、まったくドラマチックではないエンジンフィールだったのだ。当然、木下選手も「これじゃ、“スゲェ”にはならない」とダメ出し。

 理由はロードカーであるが故に触媒を装着しなければならず、マフラーも騒音規制をクリアしなければならなかった点にある。さらに、NISMO独自の決め事として、量産車と同じ10・15モード/11モードの排ガス試験を課したことにあった。このため、メタルターボをレスポンスよく回すためのカムシャフトやバルブタイミングの設定ができなかったのである。

 通常、ナンバープレート取得車の排ガスは車検場で行うアイドルCO/HCのみで、いわゆるチューニングカーのようにカムシャフトやバルブタイミングを変更しても基準をクリアすることが可能だった。そこで、10・15モード/11モードの排ガスをクリアするという目標を変えてもらうよう何度か上層部に掛け合ったが、いずれも却下された。いわく「日産ワークスとしてのNISMOの意地をみせる。安易な方向に逃げるな」である。

 ここで思わぬ話が舞い込んできた。GTカーやル・マン用に2.8L仕様のエンジンパーツがあるというのだ。「200㏄の排気量アップがあれば。ノーマルカムでもN1仕様のメタルターボを回せるかもしれない」と日産工機から提案があったのだ。そこで、すぐにエンジンを手配してテスト車に搭載した。これが大正解。ようやく元気なエンジンを手に入れ、本格的なサスペンション開発に入った。木下選手と頻繁に箱根周辺のワインディングに通ったのもこのころからだ。NISMO 400Rのエンジンルーム

 ところが、サスペンションに関しても木下選手のダメ出しが続く。「乗り心地が硬過ぎる」あるいは「曲がらない」というので、試作を繰り返した。テスト中もよく木下選手とは車内で議論した。当初掲げた「サーキット最速のチューニングカー」というコンセプトに違和感を覚えるようになったのもこのころからだった。サーキット最速を目指せばクルマ全体がハードなセッティングになり、日常性からは離れていくことになるのだ。

 結局、R33型のGT-Rが掲げるキーワードの一つである「意のままに操れる楽しさ」をさらに極めようということになった。ターゲットステージはワインディングである。そうこうするうちに11月を迎えてしまった。NISMO 400Rの発表は翌’96年の東京オートサロン。発売は同年4月1日の予定だった。価格は当初1000万円以下を目指していたが、高価な部品を多数投入したため1200万円となった。

 サスペンション開発はいよいよ尻に火がついた。それまでのデータをもとに試作のダンパーやスプリングを多数準備。テストは栃木の日産テストコースで行うことにし、スタッフは2週間近く泊まり込みで仕様選定することになった。このころにはスタッフも自らドライブし、一般ドライバー目線で木下選手のコメントの片鱗を探すようになっていた。その結果、ビルシュタインのダンパーにフロント7kg/リヤ8kgのスプリングという組み合わせでスタッフ全員が満足する仕上がりとなった。あとは木下選手に確認してもらうだけだ。木下選手にはまず、筑波サーキットで乗ってもらった。NISMO 400Rのアルミホイール

「いいねぇ、よく曲がるしエンジンもいい。合格だよ!」と開口一番。スタッフ一同ホッとした瞬間だ。ただ「欲をいうと、少し曲がり過ぎるかな。サーキットだともう少しリヤを粘らせたい気もするけど、どうかな。ワインディングでどうかだね。箱根に行ってみよう!」となった。

 後日、木下選手と箱根に向かった。「スッゲー曲がるっ! 限界がわからないくらいフロントの舵が効く。自分で開発しておいて言うのもなんだけど、タイヤを鳴らすまではなかなかいけないよ。限界付近まで攻めるとスッゲー旋回スピードだぜ。いいよ。これで行こう!」と木下選手が興奮気味に語ってくれ、われわれも安心した。NISMO 400Rのサーキット走行シーン

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