「チューニング市場バブル」夜明けの象徴
こうして、予定通り’96年の東京オートサロンで発表。赤い展示車両はもともとシルバーのボディだった。当時のオートサロンでは白やシルバーのクルマが多かったので、あえて原色系の色をチョイス。ちなみに、赤い400RはじつはVスペックではなく標準のGT-Rがベース。本物のVスペックベースの400Rは、引き続き最終チェックや試乗会などに使うため展示仕様にはしなかった。こちらも元々シルバーだったが、後にインパクトのあるイエローにした。当時「NISMOは何台R33型のGT-Rを持っているのですか? 4台あるんですか?」とよく聞かれたが、実際のところは2台であった。車体色を変えたから4台持っているように見えたようだ。
外観の特徴であるボンネットはGTカーのデザインをモチーフにした。オーバーフェンダーは全国の車検場でワイドタイヤを通すために装着しており、かつてのケンメリGT-R(KPGC110型)のオーバーフェンダーからイメージした。エンジンの名称は「RB-X GT2」。RB-Xは日産工機における2.8L仕様の呼称だった。GT2は当時、次はサーキット最速を狙った「500R」を作ろうという夢があったため、あえてGT2とした。つまり、次の500RのエンジンでGT1にしようということだったのだ。
ちなみに、このエンジンは後に大森ファクトリーのレジェンドとなる藤田末喜氏が日産工機で組んでいた。仕様こそ違うが組み方はグループA仕様のRB26DETTと同じで、ピストンクリアランスなどは低フリクションを狙ったものだった。そのため冬の朝などは始動直後にはガラガラとディーゼルエンジンのような音がする。しかし油温が適正値になると澄んだ音に変わる。いわゆる走り出す前の儀式が必要だった。
生産はエンジン以外は100%NISMOの内製。完成後は日産の追浜テストコースでチェック走行を行っていた。エンジンルーム内のシリアルプレートの製造年月日は、販売した車両はすべて’96年。NISMOで所有していた赤と黄色の2台のみ’95年製である。ただし、現在は赤い400Rは廃車となり黄色の400Rのみ保存車としてNISMO本社に残っている。
じつは1年近くにわたる400Rの開発により、肝心のストリートパーツ開発に支障が出た。そのため、400R以降のコンプリートカーが登場するのは’04年のR34型スカイラインGT-Rをベースとして「Z–tune」まで待たねばならなくなった。しかしながら、新業態プロジェクトが目指したパーツビジネスの世界において、「GT-R=NISMO」という目標は400Rという広告塔のおかげで達成されたと思っている。
ちなみに’95年に改造車検を取得したNISMOの黄色い400Rの申請書類は3cm近くの厚さのものだった。しかし、翌’96年の販売車両の書類は同じ改造内容ながら3分の1以下の1cm程度の厚さである。これは’95年から’96年にかけて、一般に言われるチューニング業界の規制緩和が行われたからだった。実際には法律は変わっておらず、検査手順の簡略化が行われた結果だった。これ以降、日本のチューニング市場はバブルへと突入する節目だった。NISMO 400Rはそんな時代を象徴するクルマとして誕生したのである。