これぞメーカー直系ワークスの底力! 今明かされるNISMO 400R誕生秘話
日産直系ワークスの『NISMO(ニスモ)』が手掛けたR33型スカイラインGT-Rベースのコンプリートカー「400R」。登場から約25年を経た今もなおファンの憧れであり、切れ味鋭い走りは格別の歓びを与える。R33型スカイラインGT-Rの歴史を語る上で、NISMO 400Rの存在は欠かせない。誕生の背景や開発の裏話まで、当時NISMOに在籍し400Rの開発責任者として手腕を振るった竹内俊介が振り返る。
「バブル景気崩壊」という逆境からの再起動
NISMO 400Rは平成8(1996)年1月の東京オートサロンで正式に発表された。R33型スカイラインGT-R Vスペックをベースに、エンジンを400psまでチューニングした『NISMO』のオリジナルコンプリートカーである。今でこそ、R35型の日産GT–R NISMOは600psのカタログスペックを誇るが、生産車に対する280ps規制があった当時は400psでも十分にハイパワーな印象だった。もちろん、筑波サーキットなどでタイムを競うプロショップのデモカー群は500ps以上を絞り出していたが、「ワークス製コンプリートカー」としての400psは、また違った意味で衝撃的だった。さらに、1200万円というプライスタグも世間の注目浴びた一因だろう。
そんな400Rのストーリーを語るには、’93年まで時計の針を戻す必要がある。’84年に創立したNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)は、100%日産自動車の子会社。ワークスチームとして国内外のモータースポーツへの参戦と、日産車ユーザーの支援および各種スポーツパーツの開発・販売を主たる業務としていた。ちなみに、この時代のスポーツパーツとはレースやラリーに参戦するためのパーツで、現在のストリートパーツとは異なっていた。モータースポーツでは、グループC、グループA、そして各種ワンメイクレースの企画・開発。さらに国内ラリー、ダートトライアル、ジムカーナなどのナンバー付き競技車両の開発とユーザー支援を行っていた。
しかし、主軸となっていたグループCとグループAは、レースそのものが’93年に終了してしまったのだ。また、国内ラリーでの活動も’92年ですでに終了していた。つまり’93年はNISMO創立以来、主軸となっていたモータースポーツの多くが終了してしまった年だったのだ。当時の社会情勢を見ると’91年あたりからバブル景気が崩壊し始めた。日本のモータースポーツは80年代後半からのバブル景気の波に乗り、第2期の黄金時代を謳歌していたのだが、バブル景気の後退とともにモータースポーツ界、ひいてはNISMOにとっても向かい風となってきたのである。当然のように日産のモータースポーツ予算も削減。このため、NISMOでは若手中堅社員を集めた「新業態プロジェクト」というチームが結成され、そこでモータースポーツ活動に次ぐ2本目の柱となる新たなビジネスの検討が行われた。その結果、本格的にストリートパーツの開発・販売に取り組み、これを2本目の柱とすることになったのだ。
NISMOがモータースポーツ活動に専念している間、世間はR32型スカイラインGT-RやS13シルビアという格好のチューニング素材を得て盛り上がっていた。NISMOも細々とストリートパーツを開発・販売していたが、完全に出遅れていたことは明白。そこで、次のR33型スカイラインGT-Rのデビュー時には、巻き返しを図ることが決まった。
ストリートパーツ事業への参入は即座に実行された。事実、’94年の東京オートサロンには、NISMO/TRD/マツダスピードの3社合同ブースを初出展。NISMOはデビューしたばかりのR33型スカイラインGTS-tタイプMとK11マーチのNISMO仕様を展示した。このようにワークス各社ともパーツビジネスへの本格参入を目指していた時期だったのだ。
また、当時のNISMO本社ショールームでは一般ユーザー向けにパーツを販売していたが、取り付け作業は行っていなかった。ただ、ユーザーからの要望が強く、パーツ取り付け事業もスタートさせることになった。当初は「PRO ARMS」という名称だったが、これが後に現在の直営ショップ部門である『NISMO大森ファクトリー』となる。
そして、プロジェクトメンバーがもっとも熱を入れたのがコンプリートカー事業だった。メルセデス・ベンツのAMG、BMWのアルピナ、フィアットのアバルトなど、海外の著名ワークスチームの多くがコンプリートカーを販売している。そこでNISMOもコンプリートカー事業を展開したいというわけである。しかし、パーツビジネスとは違い、コンプリートカー事業はそう簡単にはできない。当然ながら会社としての判断が必要な提案であった。
ところが、意外に早くコンプリートカーを売り出すことが決まった。’94年はNISMO創立10周年の節目。これを記念してコンプリートカーを販売しようというのだ。S14シルビアをベースにした270R。開発は’93年秋にスタートし、翌’94年9月のニスモ創立記念日の発売を目指した。車名の270Rは最高出力の270psを意味し、当時社長だった故・難波靖治氏の意向によるもの。かつて日産がWRC参戦のために作ったS110シルビアベースのグループBカー、240RSに由来する。
生産は日産の工場でベースを作り、専用部品の取り付けと仕上げはオーテックジャパンが行った。この270RがNISMOコンプリートカーの第1弾とされる。厳密には’90年に発売したパルサーGTI-R NISMOが初のコンプリートカーだが、こちらは国内ラリー参戦を前提とした、完全な競技車両だった。したがって、ストリートカーという点においては、270Rが第1弾と言えるのだ。
「スゲェGT-R」を目指し試行錯誤の連続
’94年の秋には翌’95年1月にR33型スカイラインGT-Rがデビューすることがわかっていた。そこで「GT-R=NISMO」のイメージを作るべく、ストリートパーツについてはR33型GT-Rの発表と同時発売を目指した。ターゲットは’95年1月6日の東京オートサロン会場でのNISMO仕様のお披露目。ただし、開発車両が手元に来るのは’94年12月。開発期間はほとんどなく走行テストも行えない。最低限、外観だけは必須と考え、エアロパーツの開発を優先した。
こうしてドタバタな中で迎えた東京オートサロン。展示車両名は「400Rプロト」とした。前年にシルビアベースの270Rを発売したことから、この車両名がコンプリートカーを意識したものであったのは誰の目にも明らか。しかし、この時点では正式にコンプリートカーとして製作するとは決まっていなかったものの、反響はかなり大きかった。スペックボードには最高出力=400psと表記。排気量はオリジナルの2568㏄のままだった。ただし、ターボはN1仕様のメタルターボ。そのほか、さまざまなパーツも列挙されていた。ちなみに、なぜ400psだったのかというと、N1耐久レースやグループN仕様で挑戦したスパ24時間レースなどでの実績を踏まえ、このパワーならばトランスミッションなど駆動系の耐久性もわかっていたからだった。
問題はどういうコンセプトにするかだった。アプローチは二つ。N1レース車両を合法化する手法。もう一つは当時盛んにだったサーキット最速のチューニングカーだ。当初は後者を選択していた。とにかく木下選手とは「スゲェGT-Rを作ろうぜ!」ということで方向性は一致していた。テストステージもサーキットや箱根周辺のワインディングロードを中心に行った。もちろん、移動区間も重要なテストロードだった。
やがてN1レース車と同じ2.6Lのままメタルターボを装着した400ps仕様が完成し、本格的な走行テストが始まった。ところが、ベンチテストでは400ps以上出ているエンジンなのに、実際に走ってみると中低速のトルクはなくレスポンスも悪い。それでいて、高回転域でもパンチ力がない。わかりやすく言えば、まったくドラマチックではないエンジンフィールだったのだ。当然、木下選手も「これじゃ、“スゲェ”にはならない」とダメ出し。
理由はロードカーであるが故に触媒を装着しなければならず、マフラーも騒音規制をクリアしなければならなかった点にある。さらに、NISMO独自の決め事として、量産車と同じ10・15モード/11モードの排ガス試験を課したことにあった。このため、メタルターボをレスポンスよく回すためのカムシャフトやバルブタイミングの設定ができなかったのである。
通常、ナンバープレート取得車の排ガスは車検場で行うアイドルCO/HCのみで、いわゆるチューニングカーのようにカムシャフトやバルブタイミングを変更しても基準をクリアすることが可能だった。そこで、10・15モード/11モードの排ガスをクリアするという目標を変えてもらうよう何度か上層部に掛け合ったが、いずれも却下された。いわく「日産ワークスとしてのNISMOの意地をみせる。安易な方向に逃げるな」である。
ここで思わぬ話が舞い込んできた。GTカーやル・マン用に2.8L仕様のエンジンパーツがあるというのだ。「200㏄の排気量アップがあれば。ノーマルカムでもN1仕様のメタルターボを回せるかもしれない」と日産工機から提案があったのだ。そこで、すぐにエンジンを手配してテスト車に搭載した。これが大正解。ようやく元気なエンジンを手に入れ、本格的なサスペンション開発に入った。木下選手と頻繁に箱根周辺のワインディングに通ったのもこのころからだ。
ところが、サスペンションに関しても木下選手のダメ出しが続く。「乗り心地が硬過ぎる」あるいは「曲がらない」というので、試作を繰り返した。テスト中もよく木下選手とは車内で議論した。当初掲げた「サーキット最速のチューニングカー」というコンセプトに違和感を覚えるようになったのもこのころからだった。サーキット最速を目指せばクルマ全体がハードなセッティングになり、日常性からは離れていくことになるのだ。
結局、R33型のGT-Rが掲げるキーワードの一つである「意のままに操れる楽しさ」をさらに極めようということになった。ターゲットステージはワインディングである。そうこうするうちに11月を迎えてしまった。NISMO 400Rの発表は翌’96年の東京オートサロン。発売は同年4月1日の予定だった。価格は当初1000万円以下を目指していたが、高価な部品を多数投入したため1200万円となった。
サスペンション開発はいよいよ尻に火がついた。それまでのデータをもとに試作のダンパーやスプリングを多数準備。テストは栃木の日産テストコースで行うことにし、スタッフは2週間近く泊まり込みで仕様選定することになった。このころにはスタッフも自らドライブし、一般ドライバー目線で木下選手のコメントの片鱗を探すようになっていた。その結果、ビルシュタインのダンパーにフロント7kg/リヤ8kgのスプリングという組み合わせでスタッフ全員が満足する仕上がりとなった。あとは木下選手に確認してもらうだけだ。木下選手にはまず、筑波サーキットで乗ってもらった。
「いいねぇ、よく曲がるしエンジンもいい。合格だよ!」と開口一番。スタッフ一同ホッとした瞬間だ。ただ「欲をいうと、少し曲がり過ぎるかな。サーキットだともう少しリヤを粘らせたい気もするけど、どうかな。ワインディングでどうかだね。箱根に行ってみよう!」となった。
後日、木下選手と箱根に向かった。「スッゲー曲がるっ! 限界がわからないくらいフロントの舵が効く。自分で開発しておいて言うのもなんだけど、タイヤを鳴らすまではなかなかいけないよ。限界付近まで攻めるとスッゲー旋回スピードだぜ。いいよ。これで行こう!」と木下選手が興奮気味に語ってくれ、われわれも安心した。
「チューニング市場バブル」夜明けの象徴
こうして、予定通り’96年の東京オートサロンで発表。赤い展示車両はもともとシルバーのボディだった。当時のオートサロンでは白やシルバーのクルマが多かったので、あえて原色系の色をチョイス。ちなみに、赤い400RはじつはVスペックではなく標準のGT-Rがベース。本物のVスペックベースの400Rは、引き続き最終チェックや試乗会などに使うため展示仕様にはしなかった。こちらも元々シルバーだったが、後にインパクトのあるイエローにした。当時「NISMOは何台R33型のGT-Rを持っているのですか? 4台あるんですか?」とよく聞かれたが、実際のところは2台であった。車体色を変えたから4台持っているように見えたようだ。
外観の特徴であるボンネットはGTカーのデザインをモチーフにした。オーバーフェンダーは全国の車検場でワイドタイヤを通すために装着しており、かつてのケンメリGT-R(KPGC110型)のオーバーフェンダーからイメージした。エンジンの名称は「RB-X GT2」。RB-Xは日産工機における2.8L仕様の呼称だった。GT2は当時、次はサーキット最速を狙った「500R」を作ろうという夢があったため、あえてGT2とした。つまり、次の500RのエンジンでGT1にしようということだったのだ。
ちなみに、このエンジンは後に大森ファクトリーのレジェンドとなる藤田末喜氏が日産工機で組んでいた。仕様こそ違うが組み方はグループA仕様のRB26DETTと同じで、ピストンクリアランスなどは低フリクションを狙ったものだった。そのため冬の朝などは始動直後にはガラガラとディーゼルエンジンのような音がする。しかし油温が適正値になると澄んだ音に変わる。いわゆる走り出す前の儀式が必要だった。
生産はエンジン以外は100%NISMOの内製。完成後は日産の追浜テストコースでチェック走行を行っていた。エンジンルーム内のシリアルプレートの製造年月日は、販売した車両はすべて’96年。NISMOで所有していた赤と黄色の2台のみ’95年製である。ただし、現在は赤い400Rは廃車となり黄色の400Rのみ保存車としてNISMO本社に残っている。
じつは1年近くにわたる400Rの開発により、肝心のストリートパーツ開発に支障が出た。そのため、400R以降のコンプリートカーが登場するのは’04年のR34型スカイラインGT-Rをベースとして「Z–tune」まで待たねばならなくなった。しかしながら、新業態プロジェクトが目指したパーツビジネスの世界において、「GT-R=NISMO」という目標は400Rという広告塔のおかげで達成されたと思っている。
ちなみに’95年に改造車検を取得したNISMOの黄色い400Rの申請書類は3cm近くの厚さのものだった。しかし、翌’96年の販売車両の書類は同じ改造内容ながら3分の1以下の1cm程度の厚さである。これは’95年から’96年にかけて、一般に言われるチューニング業界の規制緩和が行われたからだった。実際には法律は変わっておらず、検査手順の簡略化が行われた結果だった。これ以降、日本のチューニング市場はバブルへと突入する節目だった。NISMO 400Rはそんな時代を象徴するクルマとして誕生したのである。