ホイールブランドの老舗、ハヤシレーシングとは?
1970年代後半から80年代にかけて、アルミホイールが第一次ブームを迎えた当時は状況が違っていました。クルマを愛するみんながどう動いていったのか、その時注目されていた綺麗な足元、ハヤシレーシングに目を向けてみました。
アルミホイールのカスタム隆盛はレース界から
アルミホイールが国内で初めて製造されたのは1966年(昭和41年)。遠州軽金属(現在のエンケイ)が輸出用として完成させたのが事始めでした。当時国内では、殆どの市販車には“鉄チン”と呼ばれるスチールホイールが標準装備となっていて、クルマを手に入れたらまずはアルミホイールへの交換、予算的に余裕があれば合わせてタイヤも、というのがカスタマイズの第一歩でした。
そんな時代に登場し、アルミホイールのトップブランドの一つとなったのがハヤシレーシングのストリートホイール。製造販売元は大阪の東大阪市に本拠を構えるハヤシカーショップ(現ハヤシレーシング)でした。
オーナーの林将一さんは、2代続いたセルロイド加工業の3代目で、モノづくりのDNAを受け継ぎながらクルマに興味を持ったことで、ハヤシカーショップを創業させていました。ちなみに、童夢の創業者である林みのるさんは将一さんの従弟で、みのるさんによると「何でもできる憧れの兄貴のような存在だった」ようですが、そんな将一さんはモーリスマイナーを使ってロータス7(風)のカスタムカーを制作。さらに27歳の時にはホンダ1300のエンジンをミッドシップに搭載したレーシングカーのカーマンアパッチを制作してレースに出場しています。
デビューレースとなった69年の日本グランプリではドライブシャフト破損でリタイアに終わりましたが、同年11月に行われた全日本鈴鹿自動車レースでは予選3位/決勝5位の好成績を収めています。そのカーマンアパッチに装着されていたアルミホイールは、将一さんがカーマンアパッチ専用に制作したもので、それを一般市販車用にモディファイしたものがハヤシレーシング・ストリートホイールの原型になったのです。
そこから2つのトレンドラインが発生してきました。一つはレーシングカーコンストラクターとしてのハヤシレーシング(のちにハヤシカーズに発展)とホイールメーカーとしてのハヤシレーシングです。ホイールメーカーとしての流れを語る前に、レーシングカーコンストラクターとしての流れを振り返っておきましょう。
カーマンアパッチでレーシングカーを手作りし、大きな手ごたえを感じた将一さんは、第2作目となるレーシングカーづくりに取り掛かりました。カーマンアパッチはワンオフの、言わば趣味の延長でしたが、2作目は販売することも考えたレーシングカー。当時、国内モータースポーツを統括していたJAFが発表したジュニアフォーミュラ構想に則ったFJ360カテゴリーの市販レーシングカーでした。
70年の6月にプロトタイプの702Xが誕生し、実戦テストを兼ねて1戦だけレースに出場。その3か月後には市販モデルの702Aが実戦デビューし、将一さん自身がポールポジションを獲得。決勝では2番手からスタートした田中弘さんが優勝を飾っています。
そこから706、707、709、711、そして究極のFLマシン、712へと進化していきます。この712の試作モデルを開発したのは、後にF1マシンやル・マン・カーを開発することになる童夢でした。実は将一さんは、従弟のみのるさんが設立した童夢にも一役買っていて、設立された当時、童夢の本社(ワークショップ)は東大阪にあったハヤシカーショップの2階に置かれていました。
後に、その哲学の違いから童夢はハヤシカーショップの2階から独立し、京都に本拠を構えましたが、当時のことを将一さんは「みのるちゃんはクルマを作りたかった。でも僕はクルマを作って売りたかった。そこが違っていたんですわ」と述懐していました。
その後、ハヤシレーシングはレーシングカー製造部門をハヤシカーズと名前を変え、77年にはレーシングカーにとっては聖地である鈴鹿サーキット近くに大規模な工場(当時国内最大)を建てて移転しました。そこではFLに加えてF3やフォーミュラ・パシフィック、あるいは入門用フォーミュラであるFJ1600を制作。そのFJ1600用のハヤシ411Jをベースにフォーミュラ・フォード用の412Fを開発、北米に輸出したところ、デビューレースで優勝を飾るという快挙を果たしています。その栄光のマシン、ハヤシ411Jが里帰りを果たしているということも興味深いこの頃です。