日本独創のスポーツカー「RX-7」
マツダRX-7は、1978年(昭和53年)に誕生した。その3年前にドイツのポルシェから924が登場している。911が空冷リアエンジンであるのに対し、924は水冷4気筒エンジンをフロントに搭載するスポーツカーだ。アウディのエンジンを搭載したことから、当時はアウディ・ポルシェなどと呼ばれることもあった。911の価値はそれとして、924は猛烈なスポーツカーではなかったが、ごく普通に日常から乗れる身近なスポーツカーで、リトラクタブルヘッドライトに憧れたものだった。
それから数年後にRX-7がマツダから発売された。その姿は、すぐにポルシェ924を思い起こさせた。そして、日本にもリトラクタブルヘッドライトを装備したスポーツカーが現われた、との感慨があった。またリアは、ガラスハッチバックであるところがなんともお洒落だった。
また同時にRX-3と呼ばれたサバンナや、カペラの活躍で注目のロータリーエンジンを搭載していることが、なによりマツダのみならず日本独創のスポーツカーであるとの思いを強くさせ、嬉しく思わせた。初代はRX-3の後継との意味を込めサバンナRX-7が車名であった。
親しみを携えてロータリーエンジンとともに登場
日本には、先にトヨタ2000GTや日産フェアレディZというスポーツカーが存在していたが、初代マツダRX-7は、のちのロードスターのようなライトウェイトスポーツカーとして開発されており、車両重量はほぼ1トンと軽量で、より身近なスポーツカーに感じられた。車両価格もリミテッドという車種で169万円であり、当時のサラリーマンの月収は30万円を超えるまでになっていたので、値段の面でも遠すぎなかった。
加えて、トヨタや日産のような大手自動車メーカーではなく、広島のこぢんまりとした自動車メーカーからスポーツカーが生み出されたことも、親しみを覚えさせた。たちまち人気を呼んだのは言うまでもない。
このクルマでマツダは世界ラリー選手権に参戦し、ゆくゆくはル・マン24時間レースでの優勝への足掛かりにもなったスポーツカーである。
しかし、発売直後の79年に第2次石油ショックが勃発した。73年の第一次石油ショックのときのトイレットペーパー買い占めのような騒動にはならなかったが、深夜テレビの放送自粛や、ガソリンスタンドの日曜・祝日の休業などが実施された。これにより、クルマの燃費に対する目が厳しくなったのである。
ロータリーエンジンは燃焼温度が低いので、70年代初頭からの排出ガス浄化ではサーマルリアクター方式を採用し、余分なHC(炭化水素)を燃焼して除去することで対処できたが、燃費は悪かった。そこで希薄燃焼を採り入れ、後処理の触媒方式を採用することになる。
ロータリーエンジンは、回転式であるためレシプロエンジンの2ストロークのように毎回転燃焼を行えるので、小さな排気量で大馬力を出せる能力があったが、燃費改善では苦労した。
それでも、小型高性能なエンジン特性を最大に活かした姿が、初代RX-7には凝縮されており、独特な外観の造形が成立したのである。
また、小型高性能エンジンを客室近くに搭載することで、フロントミッドシップという独自の構成により、操縦性に優れ、ロータリーエンジンはスポーツカーにうってつけであった。