常に最高峰のカテゴリーに挑戦し 幾つものタイトルを獲得
昨年の世界ラリー選手権(WRC)、マニュファクチャラーズ・ランキングでは惜しくも5ポイント差で2位に終わりましたが、ドライバーズ・ランキングではセバスチャン・オジェとエルフィン・エバンスが1~2位を分け合い、さらに今シーズンは日本人の若手ドライバー、勝田貴元がフル参戦することが発表されるなど、トヨタ・ガズー・レーシング(TGR)のWRCプロジェクトにはますます期待が高まっています。
そんなトヨタのモータースポーツ事始めは、1957年にオーストラリアで行われたモービルガス・トライアルに招待されて参加したのが起源となっています。
その後ラリーに関しては、60年代後半から、よりスポーツ性の高いヨーロッパのラリーに挑戦を開始し、73年から始まった世界ラリー選手権(WRC)にはグループ2/4のレビン&セリカで挑戦。
車両規則が一新されグループBが主役となった83年以降、大きな飛躍を遂げることになりました。そんなトヨタの、栄光のWRCヒストリーを紡いできた主戦マシンの5台を紹介していきましょう。
サファリの王者となった後輪駆動のグループB トヨタ・セリカ・ツインカム-ターボ(TA64/Gr.B・1984年)
車両規則が大幅に改定され、1983年にはWRCの主役がグループ4からグループBに移行しました。そしてトヨタの競技車両として、初のグループB車両となったのがトヨタ・セリカ・ツインカム-ターボ(TA64)でした。
ベースモデルとなったのは82年9月に3T-Gを搭載してデビューした1800GTで、グループBのホモロゲーションモデルのGT-TSが200台生産されています。さらに、そのホモロゲーションモデルから20台のエボリューションモデルがトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)で製作され実戦に投入されることになりました。
エンジンは1.8ℓから2090cc(ターボ係数で2926ccに換算)まで排気量を拡大。KKK社製に置き換えられたターボチャージャーによって400馬力近くまでパワーアップしていました。外観ではライズアップ式のヘッドライトが固定式となり、樹脂製のブリスターフェンダーと相まって存在感は倍増。またトランクに装着したオイルクーラーのコアが顔を出すリアビューもただならぬ迫力を醸し出しています。
1983年のアイボリーコーストでWRC初優勝を飾るとサファリでは84~86年に3年連続優勝するなど、アフリカのラリーで圧倒的な強さを発揮しました。
4輪駆動を採用しトヨタに初のタイトルをもたらす トヨタ・セリカ GT-Four(ST165/Gr.A・1988年)
グループBがどんどんと先鋭化され、グループSへの発展も計画されていましたが、度重なるアクシデントによりプロジェクトが頓挫。1987年からはグループAが主役に引き上げられることになりました。グループBからグループAに移行したとは言うものの、ターボ・エンジンと4輪駆動システムは必至の状況でしたから、トヨタとしても両方を備えた次期FXを開発する必要があると判断。こうして生まれたのがセリカGT-Four(ST165)でした。
ベースとなったのは85年に登場した4代目…それまでの後輪駆動から前輪駆動へとコンバートされたT160系のセリカに、1年後に追加設定されたフルタイム4WDシステムを組み込んだGT-Four。トヨタのラリーカーとしては初めて4輪駆動が採用されたことが最大の特徴でした。
88年シーズンに実戦デビューしたGT-Fourは翌89年のオーストラリアで初優勝を飾ったものの、2シーズンは苦戦を余儀なくされました。しかし、熟成を進めて臨んだ90年シーズンは、初戦のモンテカルロでカルロス・サインツが2位入賞で上々の滑り出しを見せ、シーズンを通じて12戦4勝、2位4回など上位入賞を重ねたサインツが、ドライバータイトルに輝いています。これは国産車を駆るドライバーとしては初の栄誉でマニュファクチャラーでも僅差の2位でした。
重いボディに翻弄された悲運のモデル トヨタ・セリカ GT-Four(ST205/Gr.A・1995年)
1993年にトヨタは、WRCにおいて日本初となるダブルタイトル(メーカー&ドライバー)を獲得することになりました。当時の競技車両は2代目のGT-Four(セリカとしては5代目となるST185)でしたが、ベースモデルがフルモデルチェンジを受けて6代目(T200系)に移行したために、3代目となったGT-FourをベースにグループAの競技車両を開発することになりました。こうして登場したモデルがST205でした。
市販の乗用車はモデルチェンジの度にボディが大きく重くなっていきますが、T200系セリカもその例外とはならず。よってライバルがこぞって一回りコンパクトなモデルへとベースをコンバートしている中で、トヨタ(とTTE)は競技車両を製作するにあたり苦労の連続となりました。
またロードモデルでは評価の高かったスーパーストラットサスペンションも、競技車両を製作する上ではマイナス要因となったようです。ST205がデビューした94年は、シーズン中盤まで先代モデルのST185が活躍し2年連続でダブルタイトルを獲得したものの、ST205の初優勝は翌95年のツール・ド・コルスまでお預けとなりました。さらにカタルニアで車両規定違反が発覚、このシーズン全戦のポイントを剥奪されると同時に翌年は活動休止。悲運のラリーカーとなってしまいました。
2年の活動休止から復活、98年にはモンテを制覇 トヨタ・カローラ WRC(AE111/WRカー・1997年)
トヨタ/TTEが活動を休止している2年の間にWRCは大きな変貌を迎えることになりました。車両規定が変更され、97年より年間2万5000台以上の量産車に大規模な改造が認められるワールドラリーカー(WRカー)規定が導入されることになったのです。トヨタもこれに則ってベースモデルをセリカから、一回りコンパクトなカローラ・ハッチバック(AE111系)へとコンバート。ライバルはすでに、競技車両のベースを一回りコンパクトなモデルにコンバートしていましたが、これでトヨタ/TTEもライバルと同じ土俵に立つことになりました。
カローラWRCは97年のラリー・フィンランド(旧1000湖)でデビューを果たすと翌98年にはフル参戦。開幕戦のモンテカルロでカルロス・サインツが優勝し上々のスタートを切ることになりました。そしてトミ・マキネン/三菱とタイトル争いを展開することになりましたが、最終的にはドライバー/マニュファクチャラーともに2位に終わっています。
翌99年もドライバータイトルは逃したもののマニュファクチャラータイトルを奪回。これは94年以来3回目の栄誉でしたが、このシーズン限りでTTEはWRC活動を休止することになりました。
復帰2年目でマニュファクチャラータイトルを奪回 トヨタ・ヤリス WRC(NSP131/WRカー・2019年)
新たなワールドラリーカー(WRカー)規定が導入された2017年に、1999年以来18年ぶりにWRCに復帰したトヨタの新たな競技車両がヤリスWRC(NSP131)です。先代の競技車両だったカローラWRCよりもさらにコンパクトなヤリス(国内名はヴィッツ)をベースに、TMGがエンジンを開発、トミ・マキネン・レーシング(TMR)が車両を開発すると同時にチーム(TOYOTA GAZOO Racing WRT)のオペレーションをも担当する新体制が構築されています。
TMGで開発されたエンジンは、1.6ℓ直4の直噴ターボ。規定のリストリクター(36mmφ)を装着しながらも380馬力上の公称出力を発揮しています。コンパクトなボディのヤリスがベースだけに(相対的に)大袈裟すぎるほどのエアロパーツ、特にリアのウィングが外観上の大きな特徴となっていますが、フロントスポイラーやフェンダー両端のカナード、さらに前後のオーバーフェンダーなども合わせて空力処理が追求された結果、大きなダウンフォースを得ているようです。
デビュー戦となった17年シーズン開幕戦のモンテカルロではヤリ-マティ・ラトバラが2位入賞を果たし、続くスウェーデンでは初優勝、と上々のスタートとなりました。しかしまだまだ開発途上であり、このデビューシーズンはタイトルには手が届きませんでしたが復帰2シーズン目となった18年には13戦で5勝を挙げてマニュファクチャラータイトルを獲得。19年にはマニュファクチャラーのタイトルは僅差で逃したものの、オット・タナックがドライバー部門で、彼とコンビを組んでいたマルティン・ヤルヴェオヤがコドライバー部門で戴冠。堂々の2冠に輝くことになりました。