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「四つ葉マーク」「初心者マーク」が存在する社会が問題! 日本の自動車社会の未熟さとは

「標識」の有無でドライバーの態度変わることもある、という現状

 75歳以上の高齢運転者に対し、高齢者運転標識(通称もみじマーク)を普通自動車に取り付けるようにとの努力義務が1997年に決まった。続いて2002年には、その対象年齢が70歳へ引き下げられた。その後、2008年にいったん義務化されたが、翌09年に再び努力義務に戻された。

 標識自体も、導入当初のもみじマークから2011年に四つ葉マークへ変更されている。これは、当初の図案が、枯れ葉マークや落ち葉マークというように世の中で侮蔑する表現がなされるようになったことが影響している。

 それでも、もみじマークや四つ葉マークを貼りつけて運転していると、ほかのクルマからあおられるなどの経験をする人もあり、それを嫌って、身体障害者標識(高齢者運転標識とは別の図案の四つ葉マーク)や、国際シンボルマーク(車椅子の図案)を付ける運転者があるという。理由は「こちらのほうが気遣ってくれる気がするから」とのことのようだ。

 まず、そもそもの話をすれば、軽自動車も含め広く自家用車が普及した今日に至ってなお、クルマが暮らしの支えであることを多くの人が理解していないのではないか、と想像される。それが高齢者であろうが、初心者であろうが、また障害者であろうが、クルマを利用する人はみな平等であり、それが生活の権利でもある。それにもかかわらず、あおり運転をしたり、邪魔扱いをしたりする心理は、どこか「こころの貧困」を表している。運転を機敏にできたり、速度の高い運転ができたりすることに優越感を覚える意識が、運転の苦手な人を排除しようとする運転行動に出るということだ。それは差別である。

 日本には、差別が明らかになる事象が見えにくいところがある。かねてから多くの人が中流で平等だと思っていながら、同時に、学業による偏差値で優劣を決めることを子供のころから意識させられるため、劣等感を持つ人が多い。それが、見えざる差別意識を潜ませている。また順法精神は尊いが、人は法律のために生きているのではなく、人々が快適に暮らすために法律があるという、法律や規則の意義を誤解する風潮もある。

 たとえば、鉄道やバスの優先席の設置についても同様だ。本来は、どの座席に座ることも自由であり、ただし、高齢者や障害者など立ったまま乗車することの難しい人がいたら、どの席に座っていても譲るのが人としてまともな行いだ。それを、優先席だから若い人は座ってはいけない、優先席でなければ高齢者や障害者はもとより、怪我をしている人が目の前に立っても交代しなくていいと考えてしまうのは、順法精神だけを植え付けられ、社会の規範を学んでこなかった証である。

 高齢運転者標識も初心運転者標識の存在についても、体調や技量によって人を選別する行為であり、それは根底に差別意識があるためで、それをごまかすための「おためごかし」といえる。それに対する罰則規定が法律で定められていることも不自然。あおり運転を含め、同じ交通を利用する人へ危害を及ぼす行為は、運転者標識をつけていてもいなくても、同じ犯罪行為なのである。ならば、行為に対して摘発を行う法律とすべきだ。

 事程左様に、日本は法律で決めることが大切で、本質は何であるかを掘り下げることがどこか苦手だ。それは効率一辺倒で、手早くうまくやった人が偉いという価値が浸透しているためだ。しかし、時間をかけるべき大切なこともある。

誰しもいつかなる「高齢ドライバー」 その時どうすべきか

 とはいえ、こうした制度があることは現実であり、そのなかで私が考えるのは、高齢になったら運転者標識を堂々と付け、それでいてシャキッとした上手な運転を続けたいということだ。新車試乗会へ仕事で行くときも、標識を持参し、試乗車に貼り付けて運転しようと考えている。

 逆に、運転がおぼつかなくなったら、運転を諦める決断もいるだろうと考えている。そのための準備を、今から備えておくことも大切だ。人に頼るのではなく、自ら切り拓く人生をこれからも目指したい。

 しかし地域によっては、クルマでないと生活が成り立たない場所も多いはずだ。それでも、できるだけ配達や往診などに代替できないかといった摸索をしてもいいのではないか。それでも暮らしが難しくなるのであれば、まず行政に相談するといい。

 行政支援には、知らない援助が様々にある。支援制度がない場合は、行政と相談して新たにはじめてもらうことを願ってもいいのではないか。高齢化は、日本の最大の課題であるからだ。将来の高齢者にも役立つ制度の新設であれば、行政も真剣に考えるだろう。生活を維持するだけでなく、運転すること以外の生き甲斐も探したい。人生50年というが、世の中には未経験のことが山ほどある。それを探っていくことが、余生の楽しみではないだろうか。

 日本は、全国一律で物事を決めるのが難しい、一極集中の国だ。地域や状況に根差した対応策を考えることが大切で、それは法律ではなく、人々の心が結ぶ社会づくりである。簡単ではないだろう。だが、老若男女で取り組む意識が育まれなければ、日本は法律がなければことを正せない国のままとなる。

 人は法律のために生きているのではなく、みなが心地よく生きるために法律はあるという本質から、ことを見直すべきだ。

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