1965年にはオープンモデルが追加された
ベルリーナ発売の翌65年には、オープンカーのスパイダーが誕生した。幌付きのオープンカーだ。
日産にダットサン・フェアレディというオープンカーがあったが、そのころはまだオープンカーは珍しい存在だった。そもそも、スバル360や、日産サニー、トヨタ・カローラが当所ゆするような時代には、自家用車を持つことさえまだ広がっていなかったのだ。
搭載されるガソリンエンジンは高圧縮比とすることで、65馬力にまで改良され、最高速度は時速145kmに達したという。67年になると、ベルリーナGTが加わり、このガソリンエンジンには燃料噴射が採用され、最高出力こそ65馬力のままだが、最大トルクがあがった。エンジン技術へのこだわりは、創業がエンジン製造であったためだろう。
そのうえで、イタリアの造形を採り入れるなど、当時ダイハツ工業はなかなか洒落た自動車メーカーであったといえる。
また、スポーツキットの設定をしたり、レースに出場したり、走行性能の向上に意欲的なメーカーであった。P3と呼ばれた試作車は、66年の第3回日本グランプリでクラス優勝し、総合でも7位になっている。さらに68年の日本グランプリにはミッドシップのP5というレーシングカーを投入し、やはりクラス優勝を果たした。
60年代半ばまでのダイハツ工業は、イタリアデザインと高性能という特色を備えた自動車メーカーだった。
しかし、67年にトヨタと業務提携を結び、2016年にはトヨタの完全子会社となる。コンパーノの価格は、セダンのベルリーナが57.8万円で、日野コンテッサの58.5万円に近く、サニーの46万円、カローラの49.5万円に比べ、割高だった。
そうした価格面では大手との業務提携もやむを得なかっただろう。ダイハツと日野が、ともにトヨタ傘下となるのも奇遇といえる。オープンカーのコンパーノスパイダーは、69.5万円の高値だった。
コンパーノに話を戻せば、それは私が小学生のころであり、もちろん、その記憶はある。だが、子供心にはイタリアデザインを理解するだけの感性がまだ備わっていなかったようだ。60年代半ばに発売された日産サニーや、トヨタ・カローラのほうが親しみがあり、また憧れもしたのであった。
その点においては、トヨタや日産はやはり大衆車メーカーとして多くの人の心を巧みに掴む手法に優れていたといえるかもしれない。日産サニーの命名に際しては、一般から車名を公募することも行っている。身近さや分かりやすさでは、軍配が上がる。
しかしいまとなっては歳もとり、コンパーノのなんともいえぬ独創性と、簡素な造形のなかに潜む美しさに心を打たれる。それは、余計な装飾にたよらない、形そのものが生み出す美というものだろう。人生を楽しみ喜ぶイタリア人の生きざまが造形にも表れる。
残念ながら、運転をする機会はまだ得られていない。目にする機会も限られる。1960年代に青年であったなら、おおいに憧れた一台ではなかったか。
ダイハツの造形への意欲は、今日もなお、コペンやミライース、あるいはトコットやムーヴキャンバスなどから伝わってくる気がする。