改良を続けながら12年間生産を続けた
スバル360に搭載された空冷2サイクル2気筒のガソリンエンジンは、出力がわずか16馬力でしかなかったが、航空機の機体技術を応用したモノコック車体によって、車両重量はわずか385kgでしかなかった。これは当時のスクーター2台分の重さだという。この軽さを活かし、最高速度は時速83kmであった。
新車価格は42万5000円である。発売当時のサラリーマンの月給は1万6600円ほどで、その2年分に相当する。それでも、外観を含めあらゆる魅力で消費者を魅了し、たちまち人気を得た。
私が小学校低学年の折の教師もスバル360で通勤してきていたし、私の父は、同僚が所持するスバル360でゴルフへ出かけた。身長1m75cmを超える長身の父がゴルフバッグを抱えて乗り込めたのも、百瀬がこだわった客室の快適性によるものだといえる。通勤や余暇など、まさに庶民がモータリゼーションを謳歌できる時代を牽引したといえる。
約10年の歳月を経て、1969年にスバルR-2が後継として登場するまで、スバル360は改良を積み重ね、人気を衰えさせることなく販売された長寿も特徴といえるだろう。
モータースポーツでも実力を発揮!
スバル360は、毎年のように改良が続けられる一方で、価格を下げてもいた。61年には、36万5000円としている。そうしたなかで、競合にホンダN360が67年に登場するなどしたため、高速性能の方は、時速110kmまで高められ、さらに「ヤングSS」と名付けられた高性能仕様では時速120kmを達成した。
その間、1963年に三重県の鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ」では、軽自動車クラスで3位に入賞している。1~2位はスズキのスズライトであったが、翌64年の第2回日本グランプリで雪辱を果たした。スバル360は1~2位を獲得し、スズライトを3位に退けたのである。2位に入賞したのは、のちにスバルのラリー活動を牽引する小関典幸であった。
高い人気が低価格化を実現し、同時にそもそもの素性のよさが競合と遜色ない高性能を実現させたといえるだろう。まさに語られるべき名車なのである。