国産ミッドシップカーの先鞭をつけた名車
国産初の量産ミッドシップカーとして1984年6月に登場したトヨタMR2(AW10/AW11)。高級スポーツカーの代名詞であったミッドシップカーという存在を安価で庶民の手に届くようにしたエポックメイキングなクルマだ。それが評価され、同年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを獲得している。ただ「ミッドシップ」「ランナバウト」「2シーター」の名称とおり、目指したのは限界を楽しむスポーツカーではなく、小型できびきび走るスポーティなパーソナルクーペだった。
目指したのはトヨタ流のマツダ・ロードスター!?
「リーズナブルな価格と馬力がなくても乗って楽しいクルマ」というコンセプトは、昔ならばMGBやフィアットX1/9、今でいえばマツダのロードスターと同じカテゴリーであり、海外ではセレクタリーカー(働く女性のための通勤車)や余暇を楽しむセカンドカーしても好評を博した。
コンポーネンツは当時のカローラ/スプリンター(AE80系)をベースに、それを前後反転させて作る安価な手法であることからも、専用設計の本格的なスポーツカーではないことがわかる。
これに新開発かつクラス最強の1.6L 直4ツインカムエンジンである4A-GELU(130ps/15.2kg-m・グロス)をドッキング(1.5Lの直4SOHCエンジンの3A-Uも用意)。1トンを切る車重と相まって十分な動力性能を得ていた。
スタイリングは角ばったウェッジシェイプで、低く構えたボンネットにスーパーカーのアイデンティティといえるリトラクタブルヘッドライトを採用。垂直に落ちたリアウインドウとフラットなリアデッキというミッドシップ特有のデザインであった。
日本車初のニュルブルクリンクでテストを敢行
走行性能は日本では前例がないミッドシップカーを生み出すため、クルマの特性作りには時間が費やされ、カリフォルニアの耐熱テスト、アウトバーンでの高速連続走行、そして極めつけは日本車初ともいえるドイツのニュルブルクリンクオールドコースでのテストも敢行。当時業務提携を結んでいたロータスのテストドライバーを招き、テストに参画させるなど異例の体制で仕立てられたが、最後までパーソナルクーペとしての立ち位置を変えることなく、走りの味付けは誰にでも扱えるマイルドな特性で煮詰められた。
居住スペースには比較的余裕があり、ヒップポイントも高めで、視認性も良好。雰囲気はスポーティだが、着座位置を含めて室内はスポーツ性よりもパーソナル性が重視されている。ちなみに製造工場は今やなきセントラル自動車で、ガルウイングのセラやヴィッツをベースとしたコンプリートカーWillシリーズといった特殊車両を数多く製造していた。
当初の思惑どおりターゲット層から受け入れられ、2シーターミッドシップながらデビューから2年強で全世界に9万台以上を販売。ミッドシップの大衆化を成し遂げたMR2だが、やはりミッドシップ=スポーツカーのイメージが強いのか、さらなる動力性能と運動性能を求める声が日に日に高まっていった。その背景には当時の1.6Lクラスで起こっていた過激なパワー競争も大きく影響しており、販売台数強化のためには立ちはだかるライバルに対してアドバンテージを得る必要があったのだ。
「5年間で16万台」が売れるヒット作に
そのため、1986年8月のマイナーチェンジで4A-Gエンジンにスーパーチャージャーをドッキングし、足まわりを強化。パーソナルクーペからスポーツカー方向へと舵を切る。145ps/19.0kg-m(ネット)はライバルに対して大きなアドバンテージとなり、AE92レビン/トレノのとともにテンロクスポーツ界をリードするに至った。
また、マイナーチェンジではコンセプトモデルで設定されていたTバールーフが追加され、オープンエアモデルとしての楽しみもプラス。この流れが2代目のMR2へと続いていく。モータースポーツでは主にジムカーナで活躍。初期にはWRC(世界ラリー選手権)グループB、グループSへの参戦をもくろみ、投入寸前までマシン開発は進んでいたが、カテゴリーがなくなり、表舞台で活躍することなく、ひっそりと姿を消している。
初代MR2の販売台数は5年間で国内4万台、全世界では16万台を記録し、2代目へとバトンを託す。ちなみに時代が異なるため直接比較とはいかないが、この数字はトヨタ86の販売台数を大きく上回っている。実用性に乏しい2シーターミッドシップの初代MR2がどれだけ人気が高かったが伺い知れる事実だ。
「2リッター最強」を目指した2代目
2代目のMR2は1989年10月に大衆の枠を飛び越えないスポーツカーとして登場した。
コンポーネンツはカローラ/スプリンターからセリカ/コロナとひとまわり大きくなり、それにともないエンジンも2リットルの3S-G(ターボを含む、海外には入メカツインカムの3S-FEや2.2Lの5S-FEエンジン搭載車もある)に拡大されている。ただし、シリンダーブロック、シリンダーヘッドなどはセリカ用と異なり、タービンも世界初のツインエントリー・セラミックターボが採用されるなど、エンジンはMR2専用であったといえる。
スタイリングは初代同様にリトラクタブルヘッドライトを採用するが、ウエッジシェイプから丸みを帯びたラウンドシェイプに刷新され、リアガラスに曲面形状となるなど新世代に相応しいスタイリッシュなデザインとなった。ボディサイズも5ナンバーいっぱいまで拡大され、ミディアムサイズの本格的なミッドシップスポーツへと進化した。
当時は、大型のトレーラーがけん引するガラス張りのコンテナに赤の車両を積載し、全国の販売店を行脚するという前代未聞の企画が行なわれ、サーキットや加速性能で当時の2Lクラスでは飛び抜けたタイムを記録するなど華々しいデビューを果たした2代目MR2だが、ボディ剛性の不足、ブレーキや足まわりの脆弱さなど基本設計に問題を抱えていた。
そのため「速いが乗り手を選ぶピーキーなクルマ」と酷評され、モデル中盤の3型(1993年10月以降)までその対策に追われることとなる。ボディ関係のアップデートだけでなく、エンジンの強化(自然吸気165ps[1・2型]→180ps[3・4型]→200ps[5型]、ターボ225ps[1・2型]→245ps[3・4・5型])、空力性能のブラッシュアップなど地道に手を入れ続けたことで、評価は年々高まり、ミッドシップスポーツとして確固たる地位を築くことになる。ちなみにターボは5速MTのみの設定だ。
後継のMR-Sへバトンタッチ
また、モデル後半にはトヨタテクノクラフトが手掛けたオープンカーの「MRスパイダー」や、GT選手権参戦車両のエアロをまとった「TRD2000GT」といった特殊車両も登場した。
モータースポーツはジムカーナのみならず、サーキットにも進出。1996年からGT選手権のGT300クラスに参戦し、1998年、1999年と連続でシリーズチャンピオンに、1997年にはサードMC8Rとしてル・マン24時間レースに出場するなど活動の幅を広げた。ただ、バブル崩壊のあおりを受けたスポーツカーの需要低下や実用性の低さなどにより、販売台数は初代と比較しても伸び悩み、1999年10月に10年間の歴史に幕を閉じた。
後継車のMR-Sは再び初代のコンセプトに立ち返り、2Lから1.8Lにダウンサイジング。1トンを切る(初期型)軽量なパーソナルオープンカーとして再出発した。国産初のシーケンシャルMTなど革新的なメカニズムを投入したMR-Sだが、スペシャリティカー市場のシュリンクと割り切りすぎたパッケージが災いして、初代MR2のようなヒットは至らず、8年間で製造中止。これ以後、トヨタのミッドシップカーは登場していない。
MR2は国産ミッドシップカーの先鞭をつけただけでなく、スポーツカー開発から縁遠かったトヨタがスポーツカー作りに本気で取り組んだ一台。そして、のちのA80スープラ、トヨタ86、LFAなどの開発の先駆けとなったクルマであることは間違いない。今なおトヨタ史のみならず、日本自動車史に輝く名車である。