【ダイハツ・シャレード】サファリ・ラリーで格上マシンを打ち負かし続けた「小さな巨人」
1979年、初代シャレードによるモンテカルロ・ラリー参戦により国際ラリー活動を開始したダイハツ。WRCにフル参戦することはなかったが、1984年から1993年までWRCで最も過酷な大会と呼ばれるサファリ・ラリーに参戦し続けた。ラリー組織はDCCS(ダイハツ・カー・クラブ・スポーツ)が担当していた。
当初はダイハツのなかで高性能な2代目シャレードをベースにグループAラリーカーを製造したが、1Lターボはレギュレーションの排気量換算係数を加えると、1.6Lクラスで戦わなくてはならず、戦闘力不足は明白であったため、1つ下の1.3Lクラスに収めるために排気量を926㏄までダウンした「926ターボ」を発売。グループAの場合はホモロゲーション取得のためには年間5000台の生産が必要だったため、926ターボ登場と同時に、200台の生産で取得が可能なグループBへと参戦カテゴリーをスイッチしている。
見た目はノーマルと変わらず、スペックも抑えられていたが、ピストン、カムシャフト、バルブタイミングなどを変更し、点火系を強化するなど手が加えられていた。
1988年からは3代目シャレードにバトンタッチ。最強のGT-Ti(のちにGT-XX)は1Lの排気量はそのままにリッターあたり100馬力を超える新設計のDOHCターボを搭載し、ポテンシャルをさらに向上。クラス優勝の常連として名を連ねた。 記憶に残るのは参戦最終年となった1993年で、4台の185型セリカGT-FOURに続き、総合5、6、7位でフィニッシュ。ダイハツの「小さな巨人」は速さと信頼耐久性の高さを世界に知らしめることとなった。 その後、ストーリアX4やブーンX4といったラリーに勝つためのスペシャルマシンは何度かリリースされたが、国際舞台で活躍することはなかった。
【日産・パルサーGTi-R】持てる技術をフル投入! WRC制覇のためのウェポン〜
1970年代は510型ブルーバードやS30型フェアレディZが躍動、1970年代後半からはバイオレットがサファリ・ラリーで4連勝を飾るなど、輝かしい成績を収めてきた日産。WRCへの参戦は1978年からで最高位はシリーズ2位。
1983年にはグループBカテゴリーにS110型シルビアベースの240RSを投入するなど、積極的に挑戦を続けたが、1987年からグループAカテゴリーに変わってからは主流となった4WDモデルの投入が遅れ、勝負権を失った。
そんな日産がWRC制覇のために満を持して1991年にデビューさせたのが、パルサーGTi-Rだ。のちにWRCの勝利の方程式といえるコンパクトなボディに2Lターボ∔4WDシステムを押し込むパッケージをいち早く採用した。
エンジンはシルビアでもおなじみのSR20DETをベースに、クーリングチャンネルピストン、排気バルブにナトリウム封入バルブ、多連スロットル、大型タービンなどBNR32で培ったノウハウをフル投入。 230馬力/29.0kg-mのスペックは当時の2Lターボクラスでは一歩飛び抜けた性能だった。しかも、車重は1230kgと軽量で、4WDシステムはブルーバードで採用した最新のアテーサ4WDを熟成して搭載するなど満を持してのWRC参戦であったが、期待されたレベルの結果を残すことはできなかった。
原因は車体が小さすぎたこと。前後重量配分が約70:30とかなりのフロントヘビーでバランスが悪く、アンダーステアを誘発。さらに195/55R14という細いタイヤを標準としたため、十分なグリップ力を得られず、キャパシティが不足した。また、小さなエンジンルームに大きなエンジンを詰め込んだことで、クーリング性能も不十分だった。 他に整備性の悪さも現場から指摘されるなど、パッケージングの悪さが露呈したことで、「簡単なてこ入れではポテンシャル不足改善とは至らない」と日産は判断。パルサーGTi-Rは1勝も挙げることなく、わずか2年でWRCの舞台から姿を消すこととなった。