87年から91年まで世界王座の「ランチアデルタHF」
グループA規定の5000台生産をクリアして、1987年から世界ラリー選手権に即参戦を開始し、第一戦のモンテカルロではやくもデビューウインを飾っただけでなく、その年の年間チャンピオンにも輝いた。
さらにアバルトは開発の手を緩めず、SE044のコードネームで呼ばれた進化版のHFインテグラーレを登場させていった。
パワーアップはもちろんのこと、ブリスターフェンダーとなり、内実ともにより迫力を増すなどして、さらにファンを獲得していった。市販モデルでも日本も含めて大きなヒットとなった。性能面ではエンジンを16バルブ化しつつ、1990年までに4年連続で年間チャンピオンを獲得した。
ただし、グループA時代となっての数年後には、TTE(トヨタチームヨーロッパ)が送り込んでくるセリカGT-FOURなどとの死闘もあって、1991年にデルタHFは大幅な改修を受ける事になる。ここでももちろんアバルトが中心となり、SE050のコードネームが与えられて誕生したのが、最終型のいわゆるエヴォルツィオーネだった。
エンジンはタービンなどに手が入れられて市販モデルで210psとなり、足まわりもストロークアップが図られた。またブリスターフェンダーがさらに拡大されて、ルーフ後端にスポイラーが付くなどして、かなり攻撃的な雰囲気となった。
このおかげで1991年も年間チャンピンを獲得したものの、トヨタやスバル、三菱などの追撃もあって苦戦が予想されたため、ワークスとしてのランチアはWRCから撤退。翌年についてはセミワークス的な存在のジョリークラブから参戦となった。それでも引き続きマニュファクチャーではチャンピオンを獲得。デルタHFは6年連続で年間チャンピオンに輝くという偉業を達成したのである。
市販モデルについては1993年のHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネIIまで販売された。とくにこのIIについては日本がメイン市場で、最終版の限定車であったHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネIIコレッツィオーネはあまりの人気のために急きょ、200台から250台に増やされたほどだった。