ランチア大衆車「デルタ」が豹変 6年連続世界タイトルを奪ってゆく
世界ラリー選手権(WRC)の歴史の中でもっとも過激だったと言える「グループB」の車両規定は 、500psは当たり前のモンスターマシンたちがしのぎを削り、熱い戦いを繰り広げていたカテゴリーだ。駆動システムがFRから4WDへと移行したものの、コントロールはトップドライバーでも難しく、重大事故が多発。最終的にランチアS4を駆る、ヘンリ・トイボネンが死亡するに至って、グループB自体が中止されてしまう事になる。
事故防止という観点からも仕方がないことではあったが、その代わりに導入されたのが大量市販車を競技マシンのベースとする「グループA」車両だった。
常勝チームの一角だったランチアも早速参戦に向けて準備を開始し、その結果誕生したのがランチア・デルタHFインテグラーレだった。グループB終了が決定したのは1986年の半ばで、その半年後の1987年1月には完成していたとされ、たった半年で製作された競技モデルとなる。
始動の裏にはやはりアバルトがいた
当時のランチアの問題は、デルタS4のときも同様だったが、市販車に4WDモデルがないということだった。アウディ・クワトロの登場でラリー競技で速さを求めてゆく常識が一変したように、フルタイム4WDをもっていないメーカーには相当なハンデがあった。
しかし、ランチアはそれをやってのけたわけである。その舞台裏には037ラリー、S4同様に競技部門を担っていたアバルトの存在があった。SE043というコードを与えられ開発されたのがデルタHF4WDで、ベースとされたのはデルタと呼ばれる大衆ハッチバック。もちろん4WDはなかった。
イタリアに行くと、道端に普通に止まっていたりするモデルだったが、アバルトは2リッターのDOHC(2バルブ)ユニットをターボと組み合わせ、ロードモデルで165psを発揮。FFを無理やり4WDにした感はあったが、リアデフにトルセン式LSDを採用したフルタイム4WDだった。
ちなみにデルタのデザインを担当したのは、ジウジアーロのイタルデザインで、2BOXながら、存在感あるテイストを醸し出しているのはさすがと言っていい。
87年から91年まで世界王座の「ランチアデルタHF」
グループA規定の5000台生産をクリアして、1987年から世界ラリー選手権に即参戦を開始し、第一戦のモンテカルロではやくもデビューウインを飾っただけでなく、その年の年間チャンピオンにも輝いた。
さらにアバルトは開発の手を緩めず、SE044のコードネームで呼ばれた進化版のHFインテグラーレを登場させていった。
パワーアップはもちろんのこと、ブリスターフェンダーとなり、内実ともにより迫力を増すなどして、さらにファンを獲得していった。市販モデルでも日本も含めて大きなヒットとなった。性能面ではエンジンを16バルブ化しつつ、1990年までに4年連続で年間チャンピオンを獲得した。
ただし、グループA時代となっての数年後には、TTE(トヨタチームヨーロッパ)が送り込んでくるセリカGT-FOURなどとの死闘もあって、1991年にデルタHFは大幅な改修を受ける事になる。ここでももちろんアバルトが中心となり、SE050のコードネームが与えられて誕生したのが、最終型のいわゆるエヴォルツィオーネだった。
エンジンはタービンなどに手が入れられて市販モデルで210psとなり、足まわりもストロークアップが図られた。またブリスターフェンダーがさらに拡大されて、ルーフ後端にスポイラーが付くなどして、かなり攻撃的な雰囲気となった。
このおかげで1991年も年間チャンピンを獲得したものの、トヨタやスバル、三菱などの追撃もあって苦戦が予想されたため、ワークスとしてのランチアはWRCから撤退。翌年についてはセミワークス的な存在のジョリークラブから参戦となった。それでも引き続きマニュファクチャーではチャンピオンを獲得。デルタHFは6年連続で年間チャンピオンに輝くという偉業を達成したのである。
市販モデルについては1993年のHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネIIまで販売された。とくにこのIIについては日本がメイン市場で、最終版の限定車であったHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネIIコレッツィオーネはあまりの人気のために急きょ、200台から250台に増やされたほどだった。