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オートバイが主だが四輪への貢献は多大! F1エンジンまで作り上げた「ヤマハ」の強烈な技術力

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TEXT: 青山義明(AOYAMA Yoshiaki)  PHOTO: ヤマハ発動機

じつは最後発だった二輪業界への参入

 ではなぜ日本楽器からヤマハ発動機が生まれたのか? ヤマハ発動機の母体となっている日本楽器製造(現ヤマハ)は、もともとオルガンの製造から始まり、ピアノやハーモニカ、木琴などの製造を行なっていた。大正時代にはその木材加工技術を使った木製プロペラの製造に乗りだし、さらに戦時中は金属製のプロペラが主力製品となっていた。その軍用飛行機のプロペラ生産にあてられていた工作機械は、敗戦後の賠償指定が解かれたところで、この技術を戦後の復興などに役立たせたいと考えた日本楽器製造4代目社長である川上源一の発案で決まった。

日本楽器製造4代目社長の川上源一 ミシン、三輪自動車、スクーターといった市場はすでに寡占状態で、残された選択肢としてオートバイに乗り出したのだ。市場が残っていると言っても、すでに陸王、メグロ、キャブトン、ポインター、トヨモーター、トーハツ、ミシマ、ライラックといった国内にはオートバイメーカーが、150社以上も存在した時代。特に静岡西部はオートバイメーカーの激戦区ともいえる地域であった。1950年代に人気だった三輪自動車「ダイハツ・ミゼット」

 その誕生は1955年と、数多くあるメーカーの中でほぼ最後発であった。最後発メーカーだったために、「どこで差別化を図るか」ということを常に視野に入れ、軽量コンパクトでハイパワー、故障が少なく整備が簡単である2ストロークエンジン(125cc)を選択し、車体色はエンジ色(そのためこの最初のモデルは赤とんぼという愛称で呼ばれた)、実用車ばかりの時代にシングルシート&荷台なしという車両「YAMAHA YA-1」が仕上がった。

シングルシート&荷台なしの「YAMAHA YA-1」

 最終的に社名にもなった「YAMAHA」とは、日本楽器製造の初代社長である山葉寅楠氏から名づけられている。山葉家は紀州徳川藩で天文係を勤めた家柄で、この寅楠氏も紀州に生まれ医療器械の修理工であった。浜松の小学校で壊れたオルガンの修理をしたことをきっかけに、国産オルガンを開発・製作をすることとを思い立ち、1897年に日本楽器製造を興したのである。

日本楽器製造の初代社長である山葉寅楠氏

 最後発メーカーだけに、その技術力をアピールするためYA-1は「富士登山オートレース」や「全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)」に参戦。いずれも優勝はもちろん、何台もの車両が上位入賞を果たし、当時大卒初任給が1万円の時代に13万8000円というプライスタグをつけていたものの、その販売は順調で発売開始から5ヶ月後には、日本楽器製造からこのオートバイ製造部門は独立となり、ヤマハ発動機が設立してもいる。ちなみに初期の販売は写真のよう“楽器店の軒先で”というものであった。

YA-1は「富士登山オートレース」や「全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)」などで活躍

 ヤマハはそれ以後も国内のレースに留まらず、国内メーカーのトップを切って国際レースに挑戦し続け、次々と消えていくオートバイメーカーをしり目に次々と名車を輩出し、世界的なメーカーへと成長していくのである。

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