タイヤメーカー同士の争いとは異なるグループAでのHKSのチャレンジとは?
ハコ車レースのトップカテゴリーとして1985年に日本で始まったグループA。「モータ―スポーツの本場はヨーロッパだ」と言わんばかりの実力を見せつけ、4年間にわたりシリーズを席捲していた欧州車を初めて完膚なまでに打ち負かし、日本車初のシリーズ完全制覇を成し遂げたのが、グループAレースに勝利するためのパッケージを市販車に盛り込んだ、BNR32ことスカイラインGT-Rだ。
その速さに欧州車はレースから撤退するが、代わりに複数のチームがGT-Rで参戦。戦いは1992年からはGT-R同士の争いとなり、1993年のレースカテゴリー終了まで大いに盛り上がったことはGT-Rファン、モータースポーツファンならご存じのことだと思う。1メイクレースの様相を呈し、タイヤメーカーの争いと言われたグループA終盤だが、じつはもう一つの戦い、いや目標に向かってチャレンジしたチームがあった。それが自動車用アフターパーツメーカー最大手の「HKS」が運営するHKSレーシングだ。
欧州車の撤退でRB26DETTの開発は性能向上から信頼耐久性確保へとシフト
グループA仕様のR32GT-Rの車両開発は日産自動車が行い、エンジンのみ日産の関連会社であり、すでにモータースポーツエンジンの開発実績のあった日産工機(以下日工)に委託。パッケージが完成した時点でそのノウハウをNISMOに移管。ベースとなるグループA車両の製作&販売を含め、日産チームのレースコントロールはNISMOが行っていた。
事実上ライバル不在となった1991年からは性能向上の開発はストップし、出力を630ps(海外レースではMAX680psまで絞り出した)から550psへ抑え、トラブル防止やロングライフを考えた信頼耐久性の確保へとスイッチ。これはイコールコンディション化することで参戦チームを増やしたいNISMOの意向によるものだ。
つまり、シリーズ中盤以降のグループAのRB26DETTエンジンは本来の性能を封印(車体の熟成、タイヤ性能の進化などでラップタイムは年々更新していたが)。各チームは5500万円でレース車両を購入し、エンジンを日産工機からレンタルする形で参戦。エンジンは公平を期すために毎戦くじ引きが行われ、各チームに供給。事実上1メイクレース化していた。
エンジンは車両規則では独自開発することも可能であったが、グループAの絶対王者であったフォードシエラを駆逐するために日産自動車が潤沢な開発資金を投入し、日工が膨大なテストを繰り返して誕生したレース仕様のRB26DETTを1レーシングチームの開発力で打ち負かすのは難しかった。事実あるチームが一時自社開発エンジンで参戦したが結果を残せず、翌年には日工エンジンに切り替えている。
ワークスエンジンに勝つことで、技術力を世に知らしめるために参戦!
R32GT-RによるグループAレースでHKSが今だ語り継がれるのは、独自開発したRB26DETTで、最強の誉れ高いこの日工製エンジンを打ち破った唯一のマシンであるからだ。
さらに1992年シーズンに参戦する直前にはフルオリジナルのF1エンジン(3.5リッターV12 5バルブ)を完成、お披露目するなど、エンジンビルダーとしての実績を積んできた。チューニングメーカーであるHKSの参戦はパドック内で話題となった。
その開発はRB26エンジンのマージンを削り取ることから始まった。具体的にはブロック、コンロッド、クランクシャフトなどレギュレーションで市販部品しか使えないモノは軽量化と重量バランスの最適化を突き詰め、タービンなどはブレード加工を手掛けるなど、可能性を追求。変更可能なカムシャフトはプロフィールの異なるタイプもいくつも製作し、それらを組み上げてエンジンベンチに搭載。破壊試験ではないが、限界を見極めた上で各部を詰めていく作業を繰り返したという。
そして迎えた1993年シーズン。第3戦SUGOの「グループA 300kmレース」。HKS開発陣の情熱と苦労が実を結ぶこととなる。
HKSレーシングの頑張りに、勝利の女神が手を差し伸べた1993年の初勝利!
予選から速さを見せ、従来のコースレコードを0.7秒も更新して初ポールポジションを獲得! 決勝はトップをキープして順調に周回を重ねていたが、優勝のプレッシャーからか残りわずかで単独スピンし、一時2位に後退してしまう。ドライバー・スタッフともに優勝は諦めた矢先、先頭に立ったカルソニック・スカイラインにデフトラブルが発生し、HKSスカイラインが再逆転でチェッカー。このドラマティックな初勝利は1993年でもっとも記憶に残るレースといわれている。
その速さに貢献したのが、独自開発したレース専用エンジンオイル。ライフは短いが、フリクションロスを大幅に低減することでエンジンのパフォーマンスを引き出した。グループAエンジンの開発はオリジナルのエンジンオイルをアフターマーケットに送り出し、1993年参戦車両のカラーリングはそのオイル缶のパッケージデザインを採用。HKSの初勝利はオイルの販売促進に大いに役立ったそうだ。
ただし、レースで大事なのはトータルバランスであり、エンジンだけが速くても勝てるものではない。このHKSスカイラインの優勝は横浜ゴムの躍進はもちろん、HKSレーシングのスタッフ全員が努力を重ねた総合力の勝利。その頑張りに勝利の女神が最後に少しだけ手を差し伸べてくれたかもしれない。
その後、第5戦の筑波サーキット「レース・ド。ニッポン」で2度目のポールポジションを獲得! 「今年のHKSのエンジンは速い」とライバルチームが口を揃えるなど、認められる存在となった。これはあくまでも想像の域を超えないが、もし翌年もグループAレースが存在していたら、HKSは着実に力をつけただろうし、日工エンジンも封印が解かれ、さらなる激しい争いが繰り広げられたかちからもしれない。HKSの挑戦はワンメイクレース化の様相を呈していた1クラスのカンフル剤として、グループAレースを最後まで面白くした。まさに記録ではなく記憶に残る立役者である。