ラリー運営の安全性に熟慮 メーカー参戦促進のグループS構想消える
こうして開発が続けられていた222Dですが、最前線でタイトル争奪が続いていたグループBマシンは競争激化によってより先鋭化され、性能は著しく向上、スピードが増すと同時に危険性も高まっていきました。もちろんFISAでは『安全性の強化』を謳うと同時に、さらにより多くの自動車メーカーに参加を促す目的もあって、グループS構想が発表されていったのでした。トヨタ222Dも当然のように、グループB仕様からグループS仕様へと転用されていったのです。ところが……。
1986年のWRC第5戦となったツール・ド・コルスにおいて、ランチア・デルタS4のワークスカーをドライブしていた天才肌の若きエース、ヘンリ・トイボネンが競技中にクラッシュしてマシンが炎上。ナビゲーターのセルジオ・クレストとともに死亡するアクシデントが発生。FISAは直ちに「グループBの廃止(ホモロゲーション申請の受付中止)と翌87年からはWRCをグループAで戦う」ことを発表。当然のようにグループSの構想も立ち消えとなってしまいました。
仕様の異なる2台が現存すると言われている222Dですが、2016年に都内はお台場にある「MEGA WEB」において開催された特別企画展で白い1台と遭遇しました。歴代のセリカやカローラ、ヤリスなどと比べるとスポンサーカラーが施されていない分、地味に映りますが、フレアして迫力を増したフェンダーや、パネルで覆われたライトが印象的なフロントビューなど、存在感は決して引けを取るものではなかったような気がします。
その後グループA/WRカーへと活動をシフトしたトヨタはセリカ、カローラ、そしてヤリスとベースモデルを変更しながらチャレンジを続け、1990年にはST165型セリカでカルロス・サインツがドライバーチャンピオンに輝き、ST185型セリカにスイッチした92年にはサインツが2度目のチャンピオンに輝いています。そして翌93年には日本車として初のマニュファクチャラーチャンピオンに輝くことになりました。222Dは、実戦参加こそかないませんでしたが、そこでトライした技術をベースに、フルタイム4WDを鍛え上げたトヨタは、こうして栄光の座にたどり着いたのです。